神の死の時代

この表題は、比喩的な言い方で、要するに、キリスト教に対する信仰が衰えてしまったということを指す[1]

ニーチェが典型的な無神論者。彼の家系は、キリスト教信者。彼の背後には、二千年のキリスト教の伝統がある。

時代が進むにつれて社会は合理化された[2]。当然のことながら宗教への感受性が薄れていく。なぜなら宗教は、非合理的だからである。それは、合理性を超えている。中世のあるキリスト教神学者は、「不合理であるがゆえに信じる」と言ったそうである。

不合理:合理に到達していない

非合理:合理的以上のもの

こういう時代の傾向をもっともよく表現したのが、ニーチェの「神は死んだ(Gott ist tot!)」という言葉。これはまだよい方。

なぜなら「俺たちが殺したのだ。神様は、我々の短剣にかかって死んだのだ」という言葉もあるからである。

この言葉には、ニーチェの神を否定しようとするときの戦いの激しさが現れている。

 

ヨーロッパでは、「道徳」と「宗教」が結びついている。それで神が死ぬと、人間の行ないにあれこれ注文をつける厄介な神がいなくなることになる。道徳というのは、神の人間に対する命令だと考えられている。宗教と道徳が不可分のものであると考える伝統がある。つまり道徳教育=宗教教育。

だからヨーロッパでは、無宗教・無神論であるということは、(伝統的な)道徳を否定することと同じだった。そしてまともな人間とは認められない。

道徳を認めないとなると人間社会は、成立しなくなる。したがってヨーロッパでは、神が、人間は、如何に生きるべきかということの「生活規準」を与えてきた。

生活規準:あらゆる人間の共通のもの、つまり普遍的である。

 如何に生きるべきかという規準。

神の目から見たら、人間はみな同じである。しかし人間同士では、同じに見えない。不平等である。何故であろうか。こうした疑問は、創造論を考えなければ理解できない。

無からの創造 Creatio ex mohilo

普通の天地創造神話では、はじめに「カオス」があった。これがまず材料であった。ところがキリスト教、それに先立つユダヤ教は、材料自体も神が造ったと考える。したがって神には、絶対的な権力が与えられている。

和辻哲郎[3]に言わせれば、キリスト教、ユダヤ教は砂漠の厳しい自然状況の中から生まれた。そのため民主主義なんてものは成立しない。ボスを中心として団結した。そうでなければ厳しい環境の中で、他の賊との戦い(オアシスをめぐる戦い)に勝てない。そういうことが、キリスト教・ユダヤ教に影響している。

したがってキリスト教は、信じる者には愛をもって接するが、信じない者には、徹底的な弾圧をもって臨む。他の例としては、イスラム教がある。

 

人間と神に話を絞れば、

(創造主) 人間(被造物)

造り主の目から見れば、人間は誰でも同じ被造物である。つまりみな同じである。これが平等ということ。

従ってヨーロッパにおける平等という観念は、キリスト教から出ているのである。

すべての人間は、神の前で平等であるから、神の人間への道徳は普遍的である。

 

以上のような思想風土では、神が死ねば道徳がなくなるというのは、論理的必然である。

これを明瞭に表した文学作品は、

ドストエフスキーの『罪と罰』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』『白痴』

作品中にしばしば無神論者が現れてくる:

「もし神が存在しないとすれば、あらゆることが許されるだろう」(カラマーゾフの兄弟)。

 神の死=共通の生活規準の崩壊

 

ところで人間は、共通の生活基準というものなしに暮らしていくことができるだろうか。

一般に人間は、生活規準というものを意識してはいないが、それは必ずある。人間は生まれたときからその接する人によって教え込まれてきた。人間がそれを意識していないということは、それが伝統的なものだからである。

「どんな平凡な人間の一生にも、必ず二つや3三つの私小説がある」と或る人が言った。

つまり人間はその一生の間に、二つや三つの重大な決断の前に立たされる。そのどちらを選んでも自分の人生が大きく変わる。したがって結果が重大であるだけに、選択するような自分自身が納得すべき理由がなければならない。そのためには、自分の生活規準がなければならない。つまり「自分はこうだから、ああするのだ」と[4]

以上により、人間は、あらゆる人に共通な生活基準がなければならないというテーゼが成立する。

しかし他方で、生活規準はなくなったという考え方がある。

この両者の衝突、つまりつの対立するテーゼのヨーロッパにおける結末は、一人ひとりの人間が自分で自分の生活規準を作り上げなければならないということである。

 

実存哲学は、神の死と普遍的倫理の崩壊とを前提とし、個人の個性、自主性、主体性を強調する。これは同時に、人間の自由の強調になる。

自由というのは二つの面がある。

@  From〜からの自由

他の者の束縛から逃避する。

伝統的な生活規準(キリスト教)の強制というものから自由になる。強制から自由になたということは、自分独自の生活規準を作り出さなければならない。自分で自分の生き方を決めなければならない。

 一番楽なのは、伝統的な生活規準に乗っかって、安住することである。実際は、強制をされているのだが、自分でよいものと思っている。これは本当の自由とはいえない。

参考文献 E.From : Escape from freedom, 1900――自由というのは、一方では人間が求めてやまないものである。同時に自由というのは、人間が逃げ出したいものであるのだ。

A  To〜への自由

人間が自由から逃れるには、権威にすがればよい。実際は、強制なのに、強制の感じを受けない。これは、ナチズム、ファシズムの社会心理学的説明となる。今はナチズムに対して歴史の審判が下され、それがダメだとなっている。しかし当時は、ドイツ国民の広範な支持があった。

  神を信じない以上は、伝統的道徳を信じないということであるから、自分で自分の道徳を作る自由を持たなければならない。重苦しい自由というものに耐えなければならない。

 Sartre曰く:

「人間は、自由であるべく呪われている」。

「人間は、自由という刑に処せられている」。

M.Weber(ドイツの社会学者)曰く:

「合理化というのは、西欧の運命だ!人間は、一度、合理化の味を覚えると、忘れられなくなる。したがって合理的な文化の時代がやってくるのは、運命である。そこでどうしても神なき時代、宗教が権威を失う時代になってい来る。そういう状況の中で、人間は、自由な実践的主体であらざるを得ない。このことも時代の運命である。

こういう運命に耐えることができない者は、背教者ぶることはやめたらいいのだ!それが嫌なら、自由な実践的主体であらざるを得ない!」

このことは、無神論の重大さを示すものである。

 

人間が、機械や組織の奴隷になって、個性や主体性を失い、平均化された人間となる。他方、神への信仰が衰えて生活規準が動揺する。これがヨーロッパのニヒリズムの母体である。

ニーチェ『権力への意志』あるいは『力への意志』

彼は、ニヒリズムを定義している:至高の価値としてのキリスト教の道徳的価値(考え方)の権威が失墜し、すべての人々に当てはまる人生の普遍的な目標がなくなる。これがニヒリズムである。

実存哲学は、ニヒリズムに対して、主体的な人間というビジョンを打ち出すことによって、それを克服しようとした。

そこに実存哲学の長短が表されている。

人間というものは、つの面をもっている。

  人間 個別性(個性) 社会性(連帯)

実存哲学は、個別性を過度に強調している。ここに実存哲学の長短がある。すなわち実存哲学は、人間の社会性を徹底的に否定している。そのことは、マルクス主義との比較によって明瞭になる。というのは、マルクス主義と実存哲学の長短が表裏をなしているからである。

マルクス主義の人間の定義:人間というのは、社会関係の総体である。一人の人間というのは、色々な形で他人と社会関係を形成している。特に、経済的社会関係によって人間の人生は決定される ⇒ 個別性の軽視。

 他方、実存哲学は:

 自分で自分の生き方を決めてゆこうとするのが人間であると主張する ⇒ これは社会性の軽視を意味する。

 【参考】

 サルトルは、基本的には、マルクス主義の立場に立ちながら、その欠陥を補うために、実存哲学の考えを取り入れようとした。『弁証法的理性批判』

 

【参考文献】

『現代の哲学I』「実存主義」有斐閣

『実存主義講座』理想者

原佑『実存主義の思想家たち』けいそう書房

高坂正顕『キェルケゴールからサルトルへ』弘文堂

ハイネマン『実存哲学』理想社

ボルノウ『実存哲学概説』理想者

フールキエ『実存哲学』白水社

松浪信三郎『実存主義』岩波



[1]日本人は、稀に見る宗教音痴だと亀井勝一郎は言っている。私に言わせれば、日本人の中に無神論者はいない。宗教音痴なだけだ。

[2] マックス・ウェーバーは、ヨーロッパの合理化は運命であると言った。でもどうやら世界全体の運命のような気がする。

[3]和辻哲郎『風土』岩波――思想と風土との関連性を述べている。

[4] フランスの文芸評論家アペレスは、その『現代作家の反逆』の中で、神や伝統的な価値の助けを借りずに、孤独の中で自分の運命を切り開き、自ら一つの倫理を創造することが話題になっている。

 

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