略歴と時代背景

 

1889.9.261976.5.26

     父は桶屋で、教会管理人。

ハイデガーは、神父になるつもりであったらしい。しかし:

1.   公正な伝記がかかれていない。彼の経歴には傷があるから。

2.   ハイデガー自身が自分の過去について話すことを好まなかったし、他の人の伝記にも関心を示さなかった:

   「諸君! アリストテレスは生まれ、仕事をし、死んだのである!」

  ハイデガーが関心を持った人物:キェルケゴール、ドストエフスキー、ヘルダーリン(ドイツの詩人)、ニーチェ、ディルタイ、リルケ。

  これらの人々が若きハイデガーの関心をひいた。

  また、パスカル、ドストエフスキーの肖像画が彼の書斎に飾られてあった。

 

彼は、ドイツの敗戦後、連合軍によって教壇を追われた(1951)

1952フライブルク大学停年退官――ドイツでは、停年退官とは、「講義をする義務を免除される」ということ。

1953彼は、44歳の若さでフライブルク大学の総長になった。任期1年。

   カール・レービット――ハイデガーの弟子で、彼に最も厳しい批判をぶつけた。1936(昭和11)1941(昭和16)まで東北大学で外人教師をしていた。彼は、ドイツ人で、この時機の日本滞在は一種の政治亡命。『ヨーロッパのニヒリズム』(筑摩書房)

   ハイデガーがドイツ革命(ナチス)の決定的な時期に、フライブルク大学の総長になったことは、一つの事件である。

1933.1.30ヒトラー首相。連合内閣

1933.3.5総選挙  43,9%の得票率

647/288議席、得票率87,8(?)

流動票・無関心票がほとんどナチスに流れた。

1933,3,8?ハーケンクロイツが国旗になる。

1933,3,24全権委任法・授権法成立

――「国民及び国家の艱難を克服するための法律」(四年間の時限立法)

これによってヒトラーは、独裁権を獲得

441票の賛成、反対94

  この辺の事情は、デモクラシーのパラドクスを端的に示している。デモクラシーは、独裁政治と原理的に相容れない。しかしデモクラシーの多数決によって、デモクラシーは独裁政治に移る。

1933ハイデガーは、ナチスの後ろ盾で総長に就任。ハイデガーはナチスに入党。

1933.5.22就任の挨拶

『ドイツ大学の自己主張』――就任記念講演

ハイデガーは、古代ギリシアのプラトンから話を始めた。おそらくプラトンの哲人政治の理想を説いたと思われる。プラトンはその『国家編』の中で、徹底的な独裁政治を主張した。ハイデガーは、そういう考えから、ドイツ民族の歴史的な奉仕を自ら背負うと言った。そして学生に対しても、それを要求し、しかも勤労・国防奉仕を要求した。そういうことをやることによって大学は、ドイツ民族の歴史的な奉仕をする中心となる。「すべての偉大な者は、嵐の中に立つ!」

以上は、明らかにナチスに対する支持講演。

ハイデガーは、ナチスによって始めてドイツ民族の輝かしい将来が開かれると信じていた。もちろん退職間近になると、ナチスに批判的な態度をとったらしい。

 

戦後、あるジャーナリストがハイデガーに、この演説についての考えを聞いた。

ハイデガーは、「それは、取るに足らないことである」と答えた。

これは、ショッキングなことである。事故の哲学に対する自信がみなぎっている。

上の演説に対しては、二つの解釈がある。

1.  確かにハイデガーは、偉大な哲学者である。しかし政治的な見識はまったくない。

2.  レービットに代表される批判で、ハイデガーの哲学思想から当然出てくるものである。

   真下信一『思想の現代的条件』

 

ハイデガーの主著

Sein und Zeit 1927

『存在と時間』(有と時)――未完の書物

ハイデガーは、この書によって一挙に名声を博した。

【訳】

松尾啓吉 けい草書房

辻村公一 河出書房

細谷貞雄他 理想社(ハイデガー選集)

原佑 中央公論(世界の名著62)

 【参考文献】

平凡社『世界の思想家』(24)


『存在と時間』は、1923年以降、書き始められた。この頃のドイツは、混乱と動揺の時期を迎えていた。

1922.10.31イタリアでムッソリーニがファシスト政権を樹立

1923.2.21ドイツマルクが大暴落(1ドル=12千億マルク)

またこの頃、西欧全体では、終末意識が人心を圧倒していた。O.SpenglerDer Untergang des Abendlandes『西欧の没落』がベストセラーになった。

シュペングラーの文化有機体説:

文化というものも、発生、成長、没落を経るものである。この立場から、西欧の文化は、いま、没落しようとしている。このときの文化は、ある共通した特徴をもつだろう。それは、外面的な便利さを追う機械文明というものである。

 

ポール・ヴァレリ曰く:

「嵐は止んだ。それなのに我々は、これから嵐が始まろうとしているかのように不安だ」。

 

まさにこのような時期に、『存在と時間』は書かれた。

 

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