オリゲネス

エゼキエル書講話

第1講話

 

 捕囚になったすべての人が、(自分の犯した)罪のゆえに捕囚に遭ったのではありません。たしかにとても多くのユダヤ人たちが、その罪のゆえに神に捨てられて、ネブカドネザルに捕らえられ、捕囚の憂き目にって聖地から投げ出され、「バビロニアに連れ去れて」しまいましたが[1]、そのとき民のなかには正しい人たちがかながらにおりました。彼らは自分の罪のゆえに捕囚をったのではありません。それは、捕囚のくびきの下に打ちひしがれた罪人たちが、すっかり助けを奪われてしまうことのないようにするためだったのです。そこで、罪人たちバビロニアに連れ去られましたが、義人たちは昔どおりの土地に留まったと、私たちは想像してみましょう。罪人たちには、何の助けもないことになるでしょう。神は、しくしみ深く、人間を愛するお方ですから[2]、かずかずの責め苦によって罪人たちを罰している最中でも、ご自分のれみを込めて(彼らを)ご覧になり、れな者たちを法外な刑罰で打ちひしぐことのないように配慮されるのです[3]。私たちの神はいつもそういうお方ですから、有害な者たちをんでも、れみ深い神としてそれらの責め苦にしみを結びつけてくださるのです[4]。そこで私たちが述べたことが真実であると、あなたがお知りになりたいのであれば、あなたは、飢饉のとき何がエジプトで起こったかをお考えください[5]。もしも神がエジプト人だけを滅ぼそうと望み、彼らを七年の飢饉で苦しめようとされ、ご自分の望むところを行ったとすれば、ヨセフはエジプトに下らなかったでしょうし、ファラオもエジプトに臨む出来事についての夢を見ることもなかったでしょう。また、酌人の長が王のために夢を解いてくれる人がいることを示してくれることもなかったでありましょう。ところがどうでしょう、あなたもおわかりのように、神は父親として鞭打たれるのです。神は、イスラエルだけを惜しんでいるのではありません。ご自分とは無縁であるはずのエジプト人をも、ご自身の固有の優しさゆえに[6]惜しんでいるのです。慈しみ深い神の業が彼らに対して働いていることは明らかです  ヨセフがエジプトに下っていったとき、ファラオが夢によって警告を受けたとき、酌人の長が夢解きを知らせたとき、夢解きが(エジプトの食)えについて論じて、豊作のときの穀物を集めさせ、飢饉による欠乏を克服したとき[7]。これらすべてのことによって、異端者たちが非難する神の怒りが法外なものでないことは明らかであります[8]。さて、私は、私が述べたことを証明するために多くの歴史的事実を示すことができますが、目下の論題からそれていると思われないようにするために、話を切りつめさせていただきました。目下の私の論題とは、イスラエルの民がその罪のゆえに捕らえられ、連れ去られていったことについて説明することであります。



[1] Cf.Jr.24,1.

[2] 省略

[3] 省略

[4] 省略

[5] Cf.Gn.39,1sq.;41,1sq.

[6] 省略

[7] Cf.Gn.41,25sq.

[8] Cf.Hom.Jdt.2,4.