10 「そして、主の言葉が、祭司ブジの息子エゼキエルに臨んだ[1]」。たといあなたが、これらの言葉を救い主に関するものとして理解しようとなさっても、どうか恐れないでいただきたい。そのような比喩的解釈も、それなりの意味を有しているのです[2]。常におん父の内にある主の言葉は[3]、乙女から生まれた方の許に、すなわち人間の許に来ました。それは、二つのものが一つになり[4]、全人類の贖いと救いのために神がお取りになった人間が、その神性と神の独り子の本性とに結ばれるためであります[5]。「カルデア人たちの地で、主の言葉が、祭司ブジの息子エゼキエルに臨んだ[6]」。カルデア人たちは、天に関する事柄を議論します。カルデア人たちは、人間たちの誕生を推論します。「カルデア人たちの地で」。これはまるで、カルデア人たちが、運命を説き、もろもろの星の運行によって宇宙の諸原因を取り沙汰する人たちであるかのような言い方です。ですから今、この誤謬が、そして精神のこの倒錯が、「カルデア人たちの地」によって象徴的に示されているのです。「カルデア人たちの地、ケバル川の河畔。そしてその場所で、主のみ手が私の上に臨んだ[7]」。そして主の言葉とみ手が預言者に臨みました。それは、彼が、行いと言葉で身を飾るためでした。「そして彼はもろもろの幻を見た[8]」。(この言葉について)いくらか触れてみたいと思います。時間が限られていますから、私が(これまで)述べてきたことで充分かもしれませんが、この幻全体の概要だけでも軽く触れてみたいと思います。



[1] Ez.1,3.

[2] 省略

[3] Cf.Jn.1,1.

[4] Cf.Ep.2,14.

[5] 省略

[6] Ez.1,3.

[7] Ez.1,2.3.

[8] Ez.1,1.

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