「そして、主の言葉が、祭司ブジの息子エゼキエルに臨んだ[1]」。主の言葉とは、元に父なる神と共にあった神なるみ言葉[2]、信じる者たちを神々とする言葉であります。実際、神の言葉が臨んだ人々を、聖書が神々であると言い[3]、しかも聖書(の言葉)は廃れ得ないものであるとすれば、神の言葉が臨んだ人々はだれでも、神々とされるのです。エゼキエルもまた、神でした。なぜなら、神の言葉が彼に臨んだからです[4]。「私は言った。『あなた方は神々である。あなた方は皆、いと高きおん者の子らである。しかしあなた方は人間として死になさい。あなたがたは、諸侯の一人として倒れなければならない』[5]」とあります。新約聖書のどこに、これと同じような約束があるでしょうか。もしも二つの契約を区別し、(それぞれの)神は互いに異ならなければならないとすれば  こんなことは考えるのもおぞましいことで、私は暫定的に語っているのですが  そうであるとすれば、私は思い切ってこう言いたいと思います。旧約聖書の中には、新約聖書以上に大きな人間愛が示されている、と[6]。「私は言った。『あなた方は神々である。あなた方は皆、いと高きおん者の子らである』と[7]」。(神は)あなた方の一部は神々であり、他の一部は神々でないとおっしゃったのではありません。あなた方は皆、神々であるとおっしゃったのです。しかしもしもあなた方が罪を犯したなら、引き続く言葉をお聞きください。「しかしあなた方は人間として死になさい[8]」。これは、救いに招いたおん方の過失ではありません。神性へと、天の本姓の摂取へと招いてくださったおん方ご自身が死の原因なのではございません。むしろ、私たちの罪に、私たちの罪科に、「しかしあなた方は人間として死になさい。あなたがたは、諸侯の一人として倒れなければならない[9]」と言われていること(の原因)が存立しているのです。たくさんの諸侯がおりました。そして彼らの内の一人が倒れたのです。たしかに『創世記』には、こう書かれております。「見よ、アダムは」われわれのようにではなく、「われわれの一人のようになった[10]」と。ですからアダムは、罪を犯したとき、一人のようになったのです。



[1] Ez.1,2.

[2] Cf.Jn.1,1.

[3] Cf.Jn.10,35.

[4] 省略

[5] Ps.81,6,7.

[6] 省略

[7] Ps.81,6.

[8] Ps.81,7.

[9] Ps.81,7.

[10] Gn.3,22.

 

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