「そしてお前の高慢の日々に、お前の姉妹ソドムのうわさは、お前の口に上らなかった。お前が今、シリアの娘たちやお前の周囲にいるすべての者たち、お前を輪になって取り囲む外国人の娘たちの非難の的になっているのと同じように。お前は、自分の不信心と不正を担わなければならない[1]」。なんと慈しみ深い神さまでしょうか。神は、回復を望んで、こう言っているのです。「お前は、自分の不信心と不正を担いなさい」と。私は虚しく、「お前は回復される」と言うのではない。お前は、「自分の不信心と不正」を償ったとき、以前の地位に回復されるのである。身体に生じる傷は、しばしば短時間の内に生じるが、大きな苦痛を伴った傷口の治療は、傷がもたらされた均質な時間に即してではなく、治療の程度に応じて適応される。たとえば、腕の骨折や足の挫傷は、一瞬に起こります。しかし、このわずかな時間で起こったことは、たいてい三ヶ月ないしは長期にわたる治療の後、初めて癒されるものです。それと同じように、魂の靭帯を切断してしまう欲望も、情欲も、その他すべての罪も、わずかな時間の内に不幸な魂をいざなって、諸々の悪徳へと引き入れてしまうが、その後の責め苦には、多くの時間が必要とされるのです。それゆえ主は、こう言われています。「そして私は、お前が行ったように、お前がこれらの嘘をついて私の契約を蔑んだように、お前に対して行う。そして私は思い起こす」とあります[2]。先ず、「お前が行ったように、私はお前に行う」ということを思い起こします。次に、「私は、お前が幼い頃にお前と結んだ私の契約を思い起こす[3]」とあります。たしかに主は、彼女の若い頃に契約を結びました。ところで私たちは、上で、主がどのようにして彼女と契約を結んだか語りました。主は、こう言っています。「そして私は、お前と永遠の契約を立てる[4]」。「私が殺し、私が生命を与える[5]」と。この言葉は、次のことを約束しています。主は、苦痛をもたらすが、再び回復する。主は、打つが、そのみ手がそれを癒すということです。さらに『ミカ書』には、こう言われています。「私は主の怒りを担う。なぜなら私は、主に対して罪を犯したからです。主ご自身が私の訴えを義とされるまで[6]」。いつ私の訴えは義とされるのでしょう。いつ私は、主の怒りを担うのでしょうか。私は、主の「豊かな慈しみと忍耐、寛大さをうぃないがしろにし」、私の頑なさと悔い改めない心によって「神の正しい裁きの現れる怒りの日のために、神の怒りを蓄えているのです[7]」。



[1] Cf.Ez.16,55-58.

[2] Ez.16,59,60.

[3] Ez.16,60.

[4] Dt.32,39.

[5] Cf.Dt.32,39.

[6] Mi.7,9.

[7] Cf.Rm.2,4-5.

 

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