第11講話

 

「人の子よ、イスラエルの家に物語を話し、たとえを語れ。そしてこう言いなさい。『大きな翼のわし・・・』と」。

 

 身体の訓練は、それを実行する人たちに(身体)全体にわたる力を与えるものです。そしてそれは、肢体の一つひとつや肢体の諸感覚に、何かを行ったり感じたりするためのより大きな活力を与えます。たとえば視覚の訓練をすれば、目の感覚は物を見るためにより鋭くなりますし、耳をしばしば働かせれば、それは言葉の違いをよりはっきりと捉えることができるものです。幾つかの肢体について私が述べたことは、他の肢体ついても当てはめることができるでしょう。しかし身体が諸々の訓練によって強健になるとしても、至福や永遠の生命にとって何の役に立つのでしょうか。たとえ私が強健きわまりない身体を持ち、すべての肢体を強靭にするとしても、それが私にどんな利益をもたらすのでしょうか。しかし、もしも私が、何かを知るために魂の諸感覚[1]を鍛え、何かを学ぶために日夜努力すれば、それは、現生において私のためになるばかりでなく、この身体から去った後も利益を与えつづけるのです。それで(神は)、たとえと謎えでお話になったのです。それは、私たちの精神が精進を重ね、あるいは、語られたことをより上手にまとめて(深遠な意味を)鋭く洞察するするためであり、身体の諸々の悪徳から離れた後は、真理を洞察しつつ、その真理に従って各自の生路を律するようになるためです。なぜ私がこのことを助言として申したかというと、それは、神の言葉がエゼキエルに臨んで、こう言ったからです。「人の子よ、イスラエルの家に物語を話し、たとえを語れ[2]」と。ところで七十人訳聖書の翻訳者たちは、「物語を話せ」という訳語を置いていますが、それに対して、他の翻訳者は「問題を出せ」と訳し、また他の訳者は「問題を告げ知らせよ」と訳し、また他の翻訳者は「謎をかけよ」と訳しています。ですから朗読されたことは、まさに「問題」であり、「謎」であり、「たとえ」なのです。ですからもしも私たちが神の知識の照らしを必要としているとすれば、まさにここにおいこそ特に私たちはそれを必要としなければなりません。それは、この私がではなく、あなた方の祈りによって神の恵みが、この「問題」と「謎」、あるいは「たとえ」の解決を私に語ってくださるようにするためです。

 



[1] sensus animae

[2] Ez.17,2.

 

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