2 いま聖霊が示したこの鷲のたとえは、何なのでしょうか[1]。この鷲は、たんなる鷲ではなく、他の鷲と比較して大きな鷲で、巨大な翼を持ち、幅は広く、爪に満ちています。あるいはある人が(ヘブライ語から)訳したように、羽に満たされていると書かれています。いま述べたことだけでこの鷲は、他の鷲よりも大きいのではありません。それは、レバノンに侵入する飛行力を持っている点で際立っています。すなわちこの鷲は、レバノンに入り、そこにある杉の木から、見事でしなやかな極上の枝を手当たり次第に摘み取り、カナンの地や、商人たちの町あるいは商業都市、運搬者たちの町に運んだのです。あるは七十人訳によれば、城壁で囲まれた町に運びました。そしてその鷲は、レバノンの杉から取ったものを置き、カナンの地に植えられ育つようにいたしました。その後、この同じ鷲は、杉の極上の若枝を取った地から種を取って、豊かに水の傍にある茂みに覆われた野原にそれを植えました。ところで、レバノンの極上の枝を手当たり次第に摘み取ったこの鷲がカナンの地から取ったもの、すなわちこの鷲が二度目に取ったものは、力なく脆弱なもので、背丈も小さなブドウの木になりました。そしてその脆弱なブドウの木から出た若枝は、(そのブドウの木が)レバノンの杉から取られたものなので、その木に身をもたせ、その木の幹に自分の根を張るほどにまでなっていました。こうしてブドウの木が作られ、取り枝を出し、自分の若枝を伸ばしていきました。そしてその後、「また別の鷲が来ました」。それは、「豊かな羽や爪で覆われた大きな翼を持った大きな鷲でした[2]」。そして私がいま述べた「あのブドウの木は、何と、「第二の鷲が来ると[3]」、それがかつて(鷲の摘み取った)木に身をもたせてブドウの木となり、取り木を作りながら若枝を広く伸ばしていたのに、その木と結んだ契約を無視して、この第二の鷲に契約を振り替えてしまいました。そしてこのブドウの木は、第二の鷲にしがみ付き、自分の根を最初の鷲から、第二の鷲に移してしまったのです。次にこのブドウの木は、「若枝を第二の鷲に伸ばし」、「豊かな水をたたえる善き野原に植えられたていたときの土」と同じように、「その鷲が自分に水を与える」ようにしました。そして実際、そのブドウの木は水を与えられ、第二の鷲(の手)に移され、「成長し、実を結び、大きなブドウの木となりました」。こういうわけで、預言者は、次のように言うように命じられたのです。「最初の鷲と結んだ契約を破って、第二の鷲と契約を立てたブドウの木は[4]、世話をされることもなく、その柔らかな根は、花を咲かせないだろう[5]。それどころかその実は、その違反のゆえに腐り、そこから芽生えるすべてのものは、しおれるだろう。そしてそのブドウの木は、もはや大きな枝を広げることもなく、多くの人も集めないだろう。かえってそれは、根こそぎ引き抜かれるだろう。たとえそれが水を注がれても、生気を保つことも豊作にもたらされることもない。日のような風がそれに触れると、それはたちどころにしおれ、その植えられた土とともに乾いてしまう」と。歴史それ自体のこうした提示そのものが、曖昧に語られたもに若干の説明を加えて、より明瞭に語るように私たちに求めています。しかし言われたことを理解するには、多大の労苦が必用であるとすれば、問題が何であり、また素の問題がどれほど大きな不明瞭さを持っているかを言わなければなりません。たとえば最初の鷲は何であり、レバノンとは何なのか、杉とは何であり、杉の極上のものとは何なのか、また最初の鷲から第二の鷲にブドウの木が渡されたことは何を意味するのでしょうか。かつて私たちが神の助けを必要としたとすれば――しかし聖書を理解するには、私たちは常に神の聖霊を必用としています――、今の場合たしかに、その助けが私たちに臨み、神ご自身が言われたことを明らかにすべき時です。私たちの救い主が、福音の中で、幾つかのたとえ話をご自身で解釈されたように、ここでも預言者が、引き続いて朗読された第二の預言の中で、最初の鷲が、バビロニアの王ネブカドネザルであることを告げています[6]。このネブカドネザルは、レバノンすなわちエルサレムに侵入し、杉の極上の部分すなわちエルサレムの王とその王子たちを捕らえ、彼らをカナンの地すなわちバビロニアに連れていきました。こうして彼は、イスラエルの子らを捕らえて移植し、王の種や王子たちの一族から出たものたちを同じ地に留めたのでした。しかしこの後、王族たちを連行した後で、他の多くの人たちが彼によって捕らえられ、彼らはブドウの木となりました。しかしそのブドウの木は、かつて、神のためのいけにえが奉げられた聖なる地、神のぶどう園にあったときに持っていた強健さを持ってはいませんでした。むしろバビロニアに移されたのは「弱いブドウの木」でした。これらのことが行われているときエジプトの王ファラオとバビロニアの王ネブカドネザルとの間に戦争が起こりました[7]。そのとき、その王たちや高貴な一族たちとともにアッシリア人によって苦しめられていた民は、ネブカドネザルのくびきを投げ捨てて、その支配から解放される機会を見出し、この第二の大きな翼を持つ大鷲すなわちファラオに身を委ねたのです。次にこのような事件の流れの中で、神は彼らをファラオにではなくネブカドネザルに渡されたのに、彼らは、神の裁きに耐えることができず、自分たちのくびきからネブカドネザルのくびきを払い捨て、ファラオのもとに移ったものですから、神の怒りが彼らに襲いかかり、彼らが考えていたのとは反対のことが生じました。確かに、神によって断罪される者は、神の裁きを逃れたり、裁きを下す方の意思を変更したりしてはならないのであって、むしろ裁きを下した神ご自身がみずから解放してくださるまで、忍耐の限りを尽くしてその裁きを耐えなければならないのです。したがって、民がファラオに身を移したものですから、民は神の助けから見捨てられ、かつてネブカドネザルによって苦しんだときよりももっとひどい苦しみを受けることになりました。以上は、文字にしたがった、そして書き記されてとおりの喩えの解決として述べてみたものです。続いて、真のネブカドネザルと真のファラオの観点から、まさに(二羽の)鷲について預言された言葉を理解するというより骨の折れる困難な解釈を行わねばなりません。それで私は、次の朗読の始まる前に、以上のような概略的な解説を大雑把にしたのです。それは、目下の個所がよりたやすく理解され、しかもその次の個所についてもより十全な説明が確保されるためなのです。なぜなら以後に出てくる喩えは、さらに寓意的解釈によって、極めて広範囲に論じられるからです。
[1]
Cf.Ez.17,3.
[2]
Cf.Ez.17,7s.
[3]
Cf.Ez.17,15.
[4]
Cf.Ez.17,15,13,19s.
[5]
Cf.Ez.17,9s.
[6]
Cf.Ez.17,12.
[7]
Cf.Ez.17,17.