13講話

 

<「人の子よ、あなたは、ティルスの王のために嘆きの声を上げなさい。そしてあなたを顔をシドンの方に向けなさい」>

 

 司教さま方は、私に、「ティルスの支配者[1]」についての言葉を検討し、その功罪について述べ、さらに「エジプトの王ファラオ[2]」について何か新しい考察をするように命じております。さて、ティルスの王は、嘆かれておりますが、彼が人間であると考えてはなりません。実際、いかなる人間も、ケルビムの間に創造されませんでしたし、また、私たちが単純に文字通りの意味に従うなら、いかなる人間も、神の楽園の中で養われませんでした[3]。いま言いましたように、いかなる人も悦楽の楽園にいませんでした。ところがティルスの支配者が、この悦楽の楽園に生まれ、養われたと言われています。このティルスの支配者とは誰でしょうか。私たちは、ダニエルに当たってみることにしましょう。そして理解のきっかけを見出したなら、いま問題になっている支配者は肉体的な支配者ではないということにしましょう。ダニエルの後は、使徒から例を引いてみることにしましょう。そして再び、預言者たちの証言を引き合いに出してみましょう。更にこれらすべての例には、モーセが『申命記』の中で言及している話題を結び付けるべきでしょう。では、ダニエルに始まる例を取り上げてみましょう。彼は、「あなた方の支配者ミカエル」をあげ、彼がイスラエルの支配者でもあると言っています。続いてダニエルは、ミカエルが、諸国の民の国の支配者を助けたと言っています[4]。これに、使徒が付け加えています。「ともあれ、栄光と誉れと平和が、善を行うすべての人にありますように。先ずはユダヤ人、そしてギリシア人に[5]」と。イスラエルの人たちの支配者がギリシア人たちの国の支配者を助けるということについては、おそらく既に実現されたことでしょう。なぜなら私の主イエズス・キリストの到来の内に、イスラエルの王は、ギリシア人たちの国の王を助けたからです。それは、諸国の民が救いを手にし、キリストを信じることによって救われるようになるためです。さらにイスラエルの人たちの支配者ミカエルやギリシア人たちの支配者が語られているのと同じ意味で、ペルシア人たちのある王が語られています[6]。したがってこれらの支配者は人間ではありませんし、しかもそれらの支配者が支配する場所の名前に即して命名されてもいません。それで使徒も、人間について論じていないかのように、こう言ったのです。「実際、私は、完全な人たちの間では知恵を語りますが、それはこの代の知恵でも、滅びゆくこの代の支配者たち知恵でもありません。それは、神が代々に先立って私たちの栄光のためにあらかじめ定めて置かれた知恵、しかも神秘の内に隠されていて、この代の支配者たちの誰一人として知らなかった神の知恵を語ります。実際、もしも彼らが知っていたら、栄光の主を十字架に付けることは決してなかったでしょう[7]」と。また預言も、この代の支配者たちが救い主なる主を十字架に付けたということを証して、こう言っています。「地の王たちは立ち上がり、支配者たちは、主に対して、そして主によって油注がれた方(キリスト)に対して、謀をめぐらした[8]」と。それで、詩篇の他の個所でも、こう書き記されています。「私は言った。あなた方は神々であり、皆、いと高き方の子である。しかしあなた方は、人間として死に、支配者たちの一人のように倒れると[9]」。この場合、肉体的な支配者などまったく話題になっていません。ですからもしもペルシア人たちの国の(非肉体的な)支配者が存在し、イスラエルの人たちにミカエルという(非肉体的な)支配者が存在するとすれば、したがってティスルの(非肉体的な)支配者が存在するとすれば、今の預言の言葉は、これらの支配者たちに関して語っていることになります。ところで私は、モーセからも証言を提示すると約束いたしましたから、あなたはお聞きください。次のように書かれております。すなわち、「いと高き方が諸国の民を分け、アダムの子らを散らされたとき、神のみ使いたちの数に応じて諸国の民の国境を設けた」――あるいはもっとよい訳では――「イスラエルの子らの数に応じて諸国の神の国境を設けた。そして神の民ヤコブが主の取り分となった[10]」とあります。ティルスは、他の支配者の取り分となりました。バビロニアは他の支配者の取り分となりました。他の国々は、他の支配者たちの取り分となりました。またこのようにして、諸々の支配者たちは、諸国の民のすべての国境を自分のものとしたのです。ところで聖書の中にはいわば人間に関することが書かれていると考えている読者がおられるとすれば、その人は霊的になって、もっと深く理解しなければなりません。そうすれば、誰からも裁かれないでしょう[11]。実際、アッシリア人たちの王ネブカドネザルについては、彼の人格にふさわしくない事柄が知られています。実際、こう言われています。「私は力をもって振る舞い、知性の知恵によって諸国の民の国境を取り除く。そして住人たちの住まう諸々の都市を揺り動かし、全地を掌握する[12]」。そして「私は、天の諸々の星と雲を超えて上り」云々、「私はいと高き方に似たものとなる[13]」と。これがネブカドネザルです。ティルスの支配者も、ファラオも同様です。実際、真実の肉体的なファラオが、「もろもろの川は私のもので、私がそれらを作った[14]」と言うほどの狂気に駆られるはずがありません。ところでこれは今、ファラオに対する預言の中で読み上げられました。またそれは、この支配者すなわち肉体的なファラオを龍とは決して言っていません。すなわちそれはこう言っています。「私は、竜であるファラオの上に臨む。彼は、エジプトの諸々の川の中に座して、諸々の川は私のものだ、私がそれらの川を作ったと言っている[15]」と。しかしこの言葉は、私たちが採用したそれに固有な然るべき文脈の中で保持されねばなりません。それは、聖書の探求によって、隠されているものがより明瞭になるためです[16]。これらの支配者たちに対して、私たちの戦いがあります。そして福音宣教に遣わされた幸いなる使徒たちは、諸国の民の諸々の国境を掌握するものたちから人々を引き離そうとしたとき、数々の計略に苦しんだのでした。たとえば、次のように言われています[17]。使徒たちは、ティルスに入りましたが、ティルスの王は彼らを迫害しました。アンティオキアに上ると、シリアの王国の支配者は、彼らを攻撃いたしました。彼らに戦いを仕掛けてきたのはこの支配者であって、裏切り者のユダ[18]に見られるように、支配者と思われていたすべての人たちが彼らに戦いを仕掛けてきたのではありません。実際、このユダが先ず最初にイエズスを裏切ったと考えるべきではないように、使徒たちや迫害を受けたすべての人たちにとって、迫害を引き起こした支配者は、もっと別のところにいるのです。たしかにユダについて、次のように書かれています。「この一切れ(のパン)を受け取ると、サタンが彼の中に入った[19]」とあります。実際、私たちにとっての戦いは、たとえ私たちを迫害する者達が肉や血を通して現れるとしても、肉や血に対するものではありません。私たちは彼らを憎むべきでありません。たとえ彼らが私たちに敵対しつづけようと望んでいても、私たちは彼らを愛さなければなりません。私たちは、彼らを憐れまねばなりません。彼らは悪霊に取り付かれ、狂気に苦しんでいるのです。私たちに敵対しているのは、私たちを迫害している人たちではなく、むしろ彼らの心を満たしているあの悪霊どもなのです。ともかく私たちは、人間の魂に戦いを挑むどう猛な敵たちの努力が無益なものとなるよう、神さまの助けを祈り求めましょう。そしてこう言えるように頼みましょう。「主が私たちの内におられなかったら、人々が私たちに()対して立ち上がるとき、おそらく彼らは、私たちを生きたまま飲み込んでしまったでしょう[20]」と。ですから、何らかの(非肉体的な)支配者がティルスに存在するのです。そして預言は、ヒラムについては私たちに教えていません――たしかにこの名前は、列王記上の書き記されています[21]――。また、それは、ティルスの他の(肉体的な)支配者について教えていませんし、いかなる人間についても教えていません。この(聖書の)言葉は、私たちに人間的な事柄を教えるのではなく、人間の登場人物の下に神的ではあるが曰く言い表し難く何かしら神聖なものを私たちに教えているのです。ファラオは人間です。しかし私は、ファラオということでもっと別のことを理解するように教えられているのです。カルメルのナバルは、人間です[22]。そしてヒラムも人間です。しかし私は彼らの像の内に別のことを教えられているのです。いったい、肉体的なもの超え、可視的なものから不可視的なものを観想し、神の意思に従ってこれらの一つひとつを理解できるほど優れた人は誰でしょうか。



[1] Cf.Ez.28,12.

[2] Cf.Ez.29,2.

[3] Cf.Ez.28,14.13.

[4] Cf.Dn.10,13.20s.

[5] Rm.2,10.

[6] Cf.De.Princ.II,5,4.

[7] 1Co.2,6~8.

[8] Ps.2,2.

[9] Ps.81,6~7.

[10] Dt.32,8~9.

[11] Cf.1Co.2,15.

[12] Is.10,13~14.

[13] Cf.Is.10,13~14.

[14] Is.14,14.

[15] Ez.29,3.

[16] Cf.Ep.6,12.

[17] Cf.Ac.21,3.

[18] Cf.Lc.6,16.

[19] Jn.13,27.

[20] Ps.123(124),1-3.

[21] Cf.1R.7,13.

[22] Cf.1S.25,3s.

 

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