14講話

 

<「この門は閉じられ、開けられてはならない。そして誰もその門を通ってはならない。なぜなら主なる神がその門を通るからだ」>

 

 「主は、彼に言われる。『この門は閉められ、開けられてはならない。そして誰もその門を通ってはならない。なぜならイスラエルの神なる主がその門を通り、そこから出られるからだ。その門は閉じられていなければならない』[1]」とあります。人の子であるエゼキエルは、神殿の多くの門について特別に述べています[2]。そして彼は一つひとつの門について何らかのことを述べました。そして今の場合も彼は、「聞く耳のある人々[3]」に向かって、至聖所の東に向いた外の門について、それが常に閉められていなければならないことを説明しています。「そして主は彼に言われる。この門は閉じられ、開けられてはならない。そして誰もその門を通ってはならない。なぜならイスラエルの神なる主が、その門を通って中に入り、また出て行かれるからだ。その門は閉じられていなければならない。そして彼は、その門が閉じられていなければならない理由として、さらに別の理由を付け加えています。門が閉じられていなければならないのは、主なる神がその門を通るからばかりでなく、「支配者が、エロア――これは門の前庭と解釈されます――の道にそって、主のみ前でパンを食べるために、その門の内側に座るからだ[4]」と。そして「彼は、その道を通って中に入ったり、外に出たりするのです」。万物の造り主である神なる主は、感覚的な物質からできていて、しかも常に閉められている何らかの門を通って、出たり入ったりされます。そして「天地を造られた[5]」方が出入りされるがゆえに、その門は決して開けられてはならないのです。



[1] Cf.Ez.44,2.

[2] Cf.Ez.44,3s.

[3] Cf.Mt.11,15.

[4] Cf.Ez.44,3.

[5] Cf.Gn.1,1.

 

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