第2講話

「人の子よ、自分の心の赴くままに預言するイスラエルの預言者たちに向かって預言しなさい」から、「私は空しいことを予見し、欺きを占う預言者たちに、私の手を向ける」まで

 

 聖書はいかなる種類の罪についても沈黙せず、それについて読者に教えます。実際、神のみ言葉は、それを聴く人たちを癒やすために派遣されると、あらゆる種類の罪に触れ、すべての人々に語りかけねばなりませんでした。それは、何人も、かずかずの救済手段を奪われないようにするためであり、傷の治療に役立つ薬を奪われないようにするためなのです。ですから、さまざまのみ言葉が、民について、偉大な祭司たちについて、あるいは、長老たちや奉仕者たち[1]について語られます。そして、善い奉仕者たちには賞賛が与えられ、悪い奉仕者たちには譴責が加えられます。こうしてある人たちはより善き状態へと進むよう励ましを受け、またある人たちはいっそう悪い状態に陥らないようになるのです。同様に神の教えは、偽りの預言者や本物の預言者について明らかにしなければなりません。それは、預言者が、神のみ言葉に奉仕するかぎりで受け入れられるようにするためであり[2]、言葉においても生活においても、自分の宣べ伝えている教えに正しく一致しない諸教会の指導者たちが[3]偽預言者と呼ばれるようにするためなのです。それゆえ私たちは、聖書が、悪徳から戻るように私たちに教え諭すとき、嬉しく思うのです。いわんや神のみ言葉が、私たちの(聖職)位階に属する人々を動かして[4]、私たちがもろもろの罪から癒やされ、回心するように望むようになったとき、その喜びはいかばかりでありましょう。



[1] 省略

[2] Cf.Sel.Ez.13,2 (XIV 212 Lomm.).

[3] 省略

[4] 省略

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