「主のみ言葉が預言者エゼキエルに臨んで、言った。『人の子よ、私のためにイスラエルの預言者に向かって預言しなさい』[1]」。たしかにイスラエルには、有名無実の預言者たちがおりました。しかし今日でも、真のイスラエル、すなわち教会の中には、偽預言者たちと偽りの教師たちがおります。こういう人たちに対して、この言葉は告げられているのです。もしも神のみ言葉が私を責めるのであれば、私は悔い改めるようにしなければなりません。しかし、教会の博士だと見なされている私に対して何かが言われたので、私は黙らなければならないというのではありません。むしろ私は、言われたことのすべてを私自身に対して余すところなく当てはめ、悪徳から立ち返り、いま聖書が責め立てている者たちの一員とならないようにし、教会の中で神のみ言葉を誠心誠意宣教する教師たちの一員になるようにするつもりなのです[2]

「おまえは、自分の心の赴くままに預言するイスラエルの預言者たちに預言しなさい。そしておまえは、預言者たちに言いなさい[3]」。この言葉を言うように命じられた者が聖霊を必要としているように、(聖書の中に)潜在的に示されている意味を説明しようと望み、なおかつ、神のご意思に反して教え、「自分の心の赴くままに預言する者たち」に対して、いまこの預言が向けられていることを証明しようとする人にも、聖霊が必要です。実際、(文字通り)単純に理解してみますと、「預言者たち」の中には、神の霊に鼓吹されて語り、「自分の心の赴くままに」ではなく、神の思いに従って語る人たちがおりました[4]。また中には、自分が預言者であると偽って、主がかれらの中で語っていないのに、「主はこう言われると語る[5]」偽預言者たちもいたのです。目下の言葉は、諸教会の中で教えながら、真理の要求に外れて教える人たちに対しても当てはめることができます[6]。もしもだれかが、主イエス・キリストが語りお考えになられたことを、教師である主ご自身がお語りになるままに語るならば、その人は、「自分の心の赴くままに」ではなく、聖霊によって、神の子イエスのみ言葉を語るのです。もしもだれかが、使徒たちの中で語った聖霊にご意思に一致しているなら、その人は、「自分の心の赴くままに」ではなく、聖霊の「心の赴くままに[7]」語るのです。聖霊は、パウロにおいて語り、ペテロにおいて語り、その他の使徒たちにおいてもお語りになりました。ところがこれに反して、もしもだれかが、福音書を読み、自分の考えを福音に当てはめ[8]、主がお語りになったままに理解しないならば、その人は、福音書に関して「自分の心の赴くままに」語る偽りの預言者なのです。また、これらの言葉は異端者たちに関して言われたものだと理解しても、何らおかしくはないでしょう[9]。実際、彼らは、まるで福音書や使徒たちについて扱うかのように、自分たちのもろもろのアイオーンに関する作り話を語り、聖霊の「心」ではなく、「自分自身の心」を披露しているのです[10]。たしかに彼らは、「私たちは、神からいただいた賜物を知るために、キリストの心を持っています[11]」と言うことができません。しかし、異端者たちについて言い得たことが、教会の人と言われ、聖書を受け入れ、それを解釈しようと努めるこの私にも当てはめられる場合には[12]、聴衆のみなさんにお願いいたします。どうか注意深くお聴きになって、「もろもろの霊の識別」と言われる「霊の恵み[13]」を受けてください。こうして、みなさんが認証された検査官となり[14]、いつ私が偽りの教師[15]となり、いつ私が真実に宣教するのか、また何が敬神と真理とに値するのかを注意深く見分けてください。ですからもしも私が、モーセや預言者たちの中に、「キリストの心[16]」を見出すならば、私は、「自分の心の赴くままに」語るのではなく、聖霊の促しのままに語っているのです[17]。これに対して、もしも私が、(キリストの心に)適うことを見出さず、私の語ることを自分勝手に作り上げ、神とは無縁の話に浸っているとすれば、私は、神の思いに駆られて語っている[18]というより、「私の心の赴くままに」語っているのです。



[1] Ez.13,1-2.

[2] 省略

[3] Ez.13,2.

[4] 省略

[5] Ez.13,6.

[6] 省略

[7] 省略

[8] 省略

[9] 省略

[10] 省略

[11] 1Co.2,12.16.

[12] 省略

[13] 1 Co.12,9.10.

[14] 省略

[15] 省略

[16] 1 Co.2,16.

[17] 省略

[18] 省略

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