第3講話

人の子よ、自分の心の赴くままに預言するあなたの民の娘たちに、あなたの顔をしかと向けよから、「私は、その人に顔をしかと向け、その人を見捨てる」まで

 

 先ず私たちは、「あなたの顔をしかと向けよ[1]」と言われていることについて探求しなければなりません。次いで私たちは、もしも主が許してくださるなら、「自分の心のくままに預言して[2]」、「主のみ言葉[3]」によって懲らしめられることを行っている「民の娘たち」について調べなければなりません。さて、私たちのこの身体に属する顔の他に別の顔があることが、(聖書の)多くの箇所から示されていまが、しかし特に使徒が述べる言葉が明瞭です。こうあります。「実に私たちは、顔のいを取り除かれて、主の栄光を見ながら、あたかも主の霊によるかのように栄光から栄光へと(主と)同じ姿に変容されていきます[4]」と。私たちはだれでも、災難や苦悩に打ちひしがれていなければ、この身体的な顔を、覆いを取り除かれた形で持っています。しかし、使徒の言葉が述べる相貌[5]、多くの人には隠されていて、わずかの人に覆いを取って明らかにされるものなのです。実際、汚れない生活と健全な精神、そして真実の信仰とにおいて確信を持っている人は、人をく混乱や罪といういを持っていないだけでなく、その清い良心のゆえに「顔のいを取り除かれて、主の栄光を観想する」のです[6]。私たちのこの顔が覆いの掛けられたものでないように致しましょう。いま、「顔」について若干述べてみましたが、それは、「あなたの民の娘たちに、あなたの顔をしかと向けよ[7]」という引き続く箇所が何を意味するかを、私たちが理解するためでした。この顔、すなわち私たちの心の主導能力[8]は、もしも理解すべきものに「しかと向けられて」いなければ、どのようにそれを見ても、聴く人たちに見ているものを知らせているとは思われません。実際、顔を向けず、「教えのすべての風に吹き回され[9]」あてどなくさまようの人が、然るべきものを然るべき仕方で見るのは不可能なのです。ですから、理解しようと望む人は、理解しようとするものに「しかと顔を向け」なければなりません。このようなわけで、預言者たちにはいつも、「自分の顔をしかと向ける」ことが第一に命じられるのです。それはまた私たちが、私たちの「顔」を、福音や律法、預言者たち(の書)や使徒たち(の書)に「しかと向け」、の雑事ではなくキリストに、私たちの「顔をしかと向ける」ことができるようになるためでもあります。しかし私たちの魂が日常の営みに没頭している間は、私たちの魂が所有欲に燃えている間は、私たちは、私たちの「顔」を、神の命じたものに「しかと向けて」はおらず、神のに反するものに「しかと顔を向けている」のです。あなたは私たちの内のだれが、禁じられたものに「しかと顔を向ける」ことを免れているとお考えですか。だれが、昼も夜も自分の心の「顔」を、命じられたものに「しかと向ける」ほど熱心で注意深いとお考えですか。



[1] Ez.13,17.

[2] Ez.13,17.

[3] Ez.13,1. 省略

[4] 省略

[5] 省略

[6] 省略

[7] Ez.13,17.

[8] 省略

[9] Cf.Ep.4,14.