さて、目下の箇所について、どうして預言者(エレミア)に、彼が言われているものを見るために、「あなたは、あなたの民の娘らに、あなたの顔をしかと向けよ[1]」と言われているのかを、私たちが理解しようとすれば、私たちは私たちの知性を(その言葉に)しかと向け、意味されていることが何であるかを心の眼差しの中で充分に取り扱わなければなりません。そうして私たちは、理性の説得に促され、文字(通りの意味)から離れねばなりません。(文字通りの意味に即した)一般的な理解に従えば、「民」の預言をするある「娘たち」は、次のような罪を犯したと考えられます。すなわち彼女らは、「枕を取ってい合わせ」が、それらを「縫い合わせた」のに、聴き手の頭の下に置かず、「の下に」置いた。そしてある種の「覆いによって、すべての世代の人々の頭をった[2]」。これが、「民」の預言する「娘たち」に大罪として帰されているものです。しかし、(文字通りの)言葉に留まる者の一体だれが、人が「枕を縫い合わせ」、「その縫い合わせたものを」他の人の「肘の下に置いた」場合、その人は過失を犯し、神かららしめられると、言うことができるのでしょうか。一体だれが、ある人が「すべての年齢の人々の頭を覆う」ために「覆い」を作ると、その人は不敬虔に振る舞ったのだと主張することができるでしょうか。私たちは、聖書によって嫌が上にもこうせざるを得ないのです[3]。私たちは文字の(見かけの)先端から遠ざかり、み言葉と知恵とその意図を探求し、閉ざされたものを開き、に覆われたものを照らすことによって、何がわれているかを知り、呪いとは無縁の者となれるようにしなければならないのです。



[1] Ez.13,17.

[2] Cf.Ez.13,18.

[3] 省略