次のような言葉がこれに続いて語られております。「そしてイスラエルの長老たち[1]の幾人かが私のもとに来た。そして彼らは、私の前に座った[2]」。神のみ言葉はすべてに及び、教会内に立てられたいかなる種類の位階もっておくことはありません。むしろありとあらゆるものを走査して、すべての人をやそうと望んでおられます。いまの箇所でも、なにかしら同じ類のことが「司祭たち[3]に」語られております。先の言葉は、教師たちについて語られたものでした。ですから、私たちは、「司祭たち」に関して何が述べられているか考察してみることにいたしましょう。そして私たち自身を吟味して、私たちの内に、以下で説明されるような「司祭」がいないようにいたしましょう。「そしてイスラエルの長老たちの幾人かが私のもとに来た。そして彼らは、私の前に座った。そして主の言葉が私に臨み、『人の子らよ』と言った[4]」。私たちも非難を受けるのではないかどうかを知ることができるよう、(これに続く)非難の言葉を見てみることにしましょう。「これらの人たちは、各自のさまざまな思いを自分たちの心のなかに抱き、各自の不正の罰を自分たちの顔の前に置かなかったのか。いったい私は、彼らに応えようとも、応えることができるのか[5]」。「心の清い人たちは幸い[6]」。たしかに、「清い心」の持ち主は、「自分の思い」を「各自の心のなかに置く」のではなく、神のみ言葉のなかに持っているのです。俗世の世話にうつつをぬかし、現在の生活をどのように過ごすか考察すること以外に関心を持たない人たちは、「各自の心のなかに自分たちの思いを置いてい」ます[7]。たとえば、考えてみてください。もしもある人が世俗の生業や身体的な満足、豊かな食事にのことしか考えず、欲しいものに事欠いて思いい、何とかして将来の養いを得ようと悪戦苦闘するのを、あなたが目にするなら、その人は、「自分の心のなかに自分のもろもろの思いの罰を置いた」のです。それで神のみ言葉は、このような「司祭たち」を非難して預言者に言うのです。「これらの人たちは」  すなわち上述の「司祭たち」は  各自のさまざまな思いを自分たちの心のなかに抱き、各自の不正の罰を自分たちの目の前に置いた[8]」のです。私たちの内のだれ一人として、もろもろ責め苦が私たちに課せられるのは、私たちによってではなく、別のものによってだと考えてはなりません。神が罰をお作りになるのではありません。私たちの受ける苦しみは、私たち自身が用意するのです[9]。私たちがしばしば利用する証言を、ここで引き合いに出すのも時宜を得ているでしょう。「おまえたちは、おまえたちの火の光なかを歩め。おまえたちがけた炎のなかを歩め[10]」。この火炎は、他のもが起こす火ではなく、来るべき燃焼のために「」や「麦藁」を積み上げた「あなた方」の起こす火なのです[11]



[1] 省略

[2] Ez.14,1.

[3] 省略

[4] Ez.14,1-3.

[5] Ez.14,3.

[6] Mt.5,8.

[7] 省略

[8] Ez.14,3.

[9] 省略

[10] Is.50,11.

[11] Cf.1 Co.3,12.