第4講話

「大地が私に対して罪を犯し、背信に背信を重ねるなら、私はその地に私の手を伸ばす」から、「たとえそのなかに三人の男、ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても、彼らは、自分自身の正しさによって、自分の魂を解放するだけだ」まで

 

 預言者に臨んだ「主の言葉[1]」は、「罪深い地」について、どのようにしてそれが自分の罪のゆえに、「飢饉」や「どう猛な獣」、そして「剣」や「死[2]」、それも腐敗した空気によって造り出されたり、何らかの出来事の結果として起こる突然の「死」などの、さまざまな災いによって苦しめられるのかを語っています。そして次のように言われています。「私が天罰を、罪を働いた地に下すとき、たといその罪深い地に、三人の男、すなわちノア、ダニエルそしてヨブがいたとしても、彼らだけが救われる[3]」と。「飢饉」の罰がその他の罰から切り離されている第一の脅かしにおいては、「息子ら」と「娘ら」の名が語られておりません[4]。ところが「地」が「どう猛な獣」によって脅かされる言葉のなかで、(主の言葉は)こう言っています。「彼らの息子らと娘らとを救われるようにしても、彼らだけが救われる。しかし地は・・・[5]    すこし黙ってから、こう付け加えています    (地は)滅びのうちあるであろう[6]」と。さらに「剣」の脅かしのなかで(主の言葉は)、「彼らは息子らや娘らを解放しない[7]」と言っています。また「死」(の脅かし)のなかでも、同じようなことが言われています。すなわち、「彼らの息子らや娘らは、見捨てられない。しかしノアとダニエルとヨブだけが、自分たちの魂を解放するだろう[8]」と。ですから私たちには、途方もなく大きな解釈の仕事が課せられています。それゆえ私たちは、注意深く考察しなくてはなりません。そして聴衆の皆さんにお願いいたします。どうか、何かしらの偉大な景観に寄ってたかって見入るように、精神の鋭い眼差しを向けてください。そして曖昧さが、弛緩した感覚に忍び込まないようにしてください。(主の言葉は)目下の個所で、「ある町のあるいはある場所の住民たちが罪を犯したら」と言ったのではなく、「地が罪を犯したら[9]」と言っております。より単純な人ならだれでも、「地が罪を犯したなら」という言葉を聞くと、ただちに安易な理解に進んで、「地」はその地に暮らす人たちの代わりに命名されたものだと言うのを、私は知っております。しかし聖書の引き続く言葉が、このような説明をすぐに取り除きます。すなわち、「地が罪を犯し」自らの罪に躓くと、(主の)「み手は」、その「地」に住む住人たちの上に伸びるのではなく、その「地」そのものの上に伸びるのです。そしてその地は、最初の罰によって滅ぼされ、「地から、パンの養いが取り去れられる[10]」のです。それは、まるで刑罰が地にあるかのように、地は罰として「飢饉」を受け、種の実りを拒まれるのです。実際、聖書のある個所で    反対対立するものは、反対対立するものによって理解されますが    義人について、「彼は、あなたがたのうちで子もなく不毛のままでもいない[11]」と言われていることに従えば、罪人である人間は、子どももなく不毛のまま、呪われた人たちのなかで罰せられます[12]。また、罪人たちは、子どもも子孫もなく、永遠の不毛のうちに断罪されます。たとえば、「アビメレクの家」や、イサクに対して犯された罪のゆえに、「神が」その胎を「閉ざされた」人たちの家で起こったように[13]。これと同様に、地も、「飢饉がその地を襲ったとき」、何らかの意味で子もなく不毛のまま、取り残されるのです。あなたは、(聖書の)み言葉が先ず主張したことが、「地」の住人たちについて言われたのでなく、「地」そのものについて言われたものであることを真実であるとお考えになりますか。少しばかしより高次の事柄に上ってみますと、私は、聖書のもろもろの証言によって、どうして罪人が「地」と言われているかを証明することができます。実際、アダムに対してこう言われています。「おまえは地である。そしておまえは地に帰る[14]」と。私たちは今でも、罪を犯す罪人は「地」であると言うことができます。しかしこれとは反対に、聖書の広大極まりない森を散策し直してみますと、私は、(いま)私たちが知覚しているその「地」は、生き物ではないのかと憶測せざるを得ません。実際、もしも私たちが、聖書に書かれていること、すなわち「(主が)地を見下ろすと、(主は)地を戦慄させる[15]」ということを、書かれているとおり受け取れば、私たちは、「地」の動揺が主の一瞥によって引き起こされるのであって、ユダヤの人たちが考えるような運動が引き起こされるのではないと理解するのです。なぜならユダヤの人たちは、「地」の戦慄は、およそ真理からかけ離れた「地」の振動だと主張しているからであります。たしかに私たちも、私たちの罪のゆえに、この「地」のなかで悩み「戦慄」します。しかしこの私たちの戦慄は、身体を揺り動かして「戦慄」させるのではありません。それは(聖書の)他の個所でも言われているとおりであります。すなわち主は、「謙遜で穏やかで、私の言葉に戦慄する人を除いて、私はだれを顧みよう[16]」と言われております。これによって、神に柔和な心で謙遜に仕える人は、神の「言葉」によって、身体を「戦慄」させるのではなく、むしろ精神を「戦慄」させることが明らかとなります。これらのことは、私たちが引用した証言、すなわち「(主が)地を見下ろすと、(主は)地を戦慄させる」という証言を十分に説明するために、(目下の講話の)途中で語られたものです。しかし、「地」について言われているまた別の言葉をお聞きください。「地はそこに住む者たちによって侮辱される[17]」。どうして「地は侮辱される」のでしょうか。いつ地は、「そこに暮らす者たちに」反感を抱くのでしょうか。それは彼らが罪人になったときです。別の例もお聞きください。「地はその安息日に喜ぶだろう[18]」。それはすなわち、あるものが「地の安息日」と呼ばれていて、地はそこにおいて「喜び楽しむ」ということです。私はまだ、次の言葉を言っていませんでした。「天よ、注意せよ。私は語ろう。そして地よ、私の口の言葉を聞け[19]」。また次の言葉もまだ言っていませんでした。「天よ、聞け。地よ、耳を傾けて聞け[20]」。さらにエレミヤの次の預言も言っていませんでした。「地よ、地よ、主の言葉を聞け。見捨てられたその男を書き記せ[21]」。(他にも)多くのものが、記憶力の貧しさと才能の遅鈍さゆえに、私たちに隠されています。神がお造りになった能力のある理性的被造物はたくさんあります。「支配の霊や権威の霊、この世の闇の支配者たち[22]」ばかりではありません。またよい意味での「王座の霊や支配の霊[23]」、および使徒が私たちの知性に言い残したその他のものがあります。すなわち、「この代においてばかりでなく、来たるべき代においても、名の付けられるすべのものの上に位する[24]」ものなどです。「空気」もまた、同じ使徒の証言によりますと、もろもろの生き物に満ちています。彼は次のように述べています。「あなたがたはかつて、この世の流れに合わせ、中空にあって支配権を握っている権威の霊、すなわち、不信の子らのなかで今も働いている霊に従って、それら(の罪)のなかを歩んでいたのです[25]」と。したがって「地」とは、すべての生き物であり、至るところにいるさまざまな動物たちなのです。実際、「地は侮辱され」、また「その安息日を喜ぶ」わけですから、すべての地が「侮辱され」、またすべての地が「歓喜する」わけではないのです。たしかに「地」は、「その住人たちにとともに」教えを受け、影においてであれ、真理においてであれ、その本性に従って「安息日」を学んでいるのです。それゆえより神聖な理解によれば[26]、「安息」は、聖なる「地」へ入所から数えて、神がそのなかに住むのをよしとする「七年後に」行われます[27]。しかし罪人たちが「地」にいるとすれば、「地が安息日」を執り行うのは、もはや七年後ではなく、七十年後になります。私たちは、七十年に関する言葉が、『エレミア』においても『ダニエル』においても、聖書に書き記されているのを知っております[28]。そして裁きの日には人間だけが裁かれるのではなく、すべての被造物が裁かれることになるのです。実際、「すべての被造物は、ともにうめき、ともに苦しんでいるのです[29]」。もしも「すべての被造物がともに、ともに苦しんでいる」とすれば、そして地も天も空気も、天の下にあるものも天の上にあるものも「被造物」の一部であるとすれば、また「すべての被造物は、腐敗への隷属から解放されて、神の子らの栄光の自由に入る[30]」とすれば、いったいだれが「地」について、それがその本性に従って何らかの罪に服したままであると考えようか。実際もしも「地」が生き物であり、理性的であり、次のように語る預言者の言葉を聞く必要があるのなら、すなわち「天よ、耳を傾けよ。私は語ろう。地よ、私の口の言葉を聞け[31]」、そして「天よ、聞け。そして地は、耳を傾けよ[32]」と言う預言者の言葉を聞く必要があるのなら、なぜ私たちは、人間のなかには、行うように命じられたみ言葉を聞きそれを行う人がおり、またそれを聞いても命じられたことを果たさない人がいるように、天使も変節すると言わないのでしょうか。実際、「天使たちは、自分たちの地位を守らず、自分たちの固有な住まいを捨てて、大いなる日のために主によって永遠の鎖につながれ、闇のなかに閉じ込められるのです[33]」。ですから、『黙示録』のなかに記されていることに関して、あるいはその他の無数の個所から私たちがしばしば語ったように、変節する「天使たち」もいれば、神の掟を守る天使たちもおり、裁きを待つのは人間たちばかりでなく、神の「み使いたち」もそうであるのと同じように、どうして、「地」と空気の裁きも将来起こらないと言えるでしょうか。もしもあなたが、「全被造物」は裁かれると主張するために私が行った論証は同意すべきものではないとお考えになるのであれば、さらに「地」についての別の証言をお聞きください。神は、兄弟アベルを殺害したカインに尋ね[34]、私たちが『創世記』のなかに読む多くの言葉を語った後で、最後に「地」についてこう言われました。「おまえの手からおまえの兄弟の血を受けるために、その口を開いた地は呪われよ[35]」と。私は、次の言葉も省くことはできません。「地は、おまえの業において呪われるものになった[36]」と。そして場合によっては、「地」は反対に祝福されることもあります[37]。たしかに「地」は、神の声によって「呪われ」たり「祝福され」たりするのを、私たちは読んでいます。ですからあなたは、「すべての被造物はともにうめいている[38]」という言葉が正当に言われているのがおわかりいただけるでしょう。そして先ほどの「地はそこに住む者たちによって侮辱される[39]」という例に帰ってみますと、「地」は、私たちを母親のように支え、善い息子たちに喜び、罪を犯した息子らに心を痛めるのだと、私は思っております。実際、「愚かな息子は父親の怒りの種ですし、彼を産んだ母親の悲しみの種です[40]」が、「愚かな息子」は、私たちがその種から生れたこの世の父と母とをは煩わせるだけではありません。私たちの本当の母であるこの母なる大地をも悲しませるのです。「神は、土の塵を取って」、「人間をお作りになった」のでした[41]。したがって「地」は、私たちの母なのです。「地」は、正しい息子を産むと喜びます。「地」は、アブラハムとイサクとヤコブを産んだとき喜びました。そして「地」は、私たちの主イエズス・キリストが来られたとき、神の子を産むのにふさわしいものになったとして、喜んだのでした。主の到来について「全地は喜びの声を上げる[42]」と書き記されているのですから、使徒たちと預言者たちとについて何を言う必要があるでしょう。可哀想なユダヤの人たちも、メシアの臨在についてこれらのことが告げられているのを認めていますが、彼らは愚かにも、告げられたことが実現されたのを見たにもかかわらず、(キリストという)この御方を認めてはいないのです。実際、キリストの到来以前に、いつ、ブリタニアの地は、唯一の神の宗教を受け入れたのでしょうか。いつムーア人たちの地は唯一の神の宗教を受け入れたのでしょうか。いつ全地はこぞってそうしたのでしょうか。ところが今や、世界の果てにまで及ぶ教会のおかげで、全「地」はイエズスラエルの神に「喜びの声を上げ[43]」、その「もろもろの境」に従ってかずかずの善きことを受け入れているのです。「(主は)イスラエルの子らの数に従って国々の境を設けられ、その民ヤコブは主の取り分となり、イスラエルは主の嗣業の地となった[44]」のです。すなわち地は、生き物と同じように、そのかずかずの地域の性質に従って善き業や悪い業を行うことができるのであり、それらの業によって地は、称賛を受けたり罰を受けたりするのです。ですから、「地が、私に対して罪を犯し、罪に罪を重ねるなら[45]」と言われるとき、何らかの神秘が意味されているのです。ある場合には、(地の)住民たちのことが言われ、またある場合には、住民の住む地のことが言われているのです。「天と地は過ぎ去る[46]」とあります。それらがその移行に値するような何らかのことを行ったのでなければ、どうして「天」は通り過ぎていくのでしょうか。どうして「地は過ぎ去る」のでしょうか。また別のところでは、「全地は滅ぼされた[47]」と言われております。いつ「地は滅ぼされた」のでしょうか。洪水の起こる以前には、地が洪水の氾濫によって「滅ぼされる」ことはなかったのです。このようなわけで、「地が私に対して罪を犯し、罪に罪を重ねるなら、私は私の手を伸ばし、地のパンの支えを絶つ[48]」と(主は)言われているのです。神は、「ご自分のみ手を罪深い地に伸ばし」、「地に飢饉を送る[49]」のです。私は「地が」いつの日か「罪を犯す」ことについて、また別の意味でも解釈することができます。すなわち「地」とは、私たちの魂なのです。福音書のたとえ話のなかでは、魂は「岩」として示され、魂が大きな忍耐のゆえに、「善い肥沃な地」として示されています[50]。ですからこの「地」は、しばしば罪を犯し、またしばしば罪を犯さないのです。そしてもしも「地」が罪を犯すなら、「神はそのみ手を地に伸ばし、地のパンのすべての支えを絶たれる[51]」のです。全能の神よ、「この地」から、すなわち私たちの魂から、「パンの支えを絶た」ないでください。むしろあなたの種を私たちに惜しみなく与えてくださり、私たちのなかで「百倍の実」を結んでください[52]



[1] Cf.Ez.14,12.

[2] Cf.Ez.14,21.

[3] Cf.Ez.14,21.16sq.

[4] cf.Ez.14,13.

[5] Cf.Ez.14,15.

[6] Cf.Ez.14,16-17.

[7] Cf.Ez.14,18.

[8] Cf.Ez.14,19 et 14,20.

[9] Ez.14,13;cf.eg.Hom.Jd.7,1(GCS II, 504, 18).

[10] Cf.Ez.14,13.

[11] Cf.Ex.23,26.

[12] Hom.Gn.11,1(GCS 1, 101, 21).

[13] Cf.Gn.20,18.

[14] Gn.3,19.

[15] Ps.103(104),32.

[16] Is.66,2.

[17] Cf.Is.24,5.

[18] Lv.26,43.

[19] Dt.32,1.

[20] Is.1,2.

[21] Jr.22,29.30.

[22] cf.Ep.6,12.

[23] Cf.Col.1,16.

[24] Ep.1,21.

[25] Ep.2,2.

[26] 削除

[27] Cf.Lv.25,4.

[28] Cf.Jr.25,11;Dn.9,2.

[29] Rm.8,22.

[30] Rm.8,21.

[31] Dt.32,1.

[32] Is.1,2.

[33] Jude 1,6.

[34] Cf.Gn.4,9.

[35] Gn.4,11.

[36] Gn.3,17.

[37] Cf.eg.Gn.27,27.

[38] Rm.8,22.

[39] Cf.Is.24,5.

[40] Pr.17,25.

[41] Cf.Gn.2,7.

[42] Cf.Is.24,14.

[43] Cf.Is.24,14.

[44] Cf.Dt.32,8.

[45] Ez.14,13.

[46] Mt.24,35.

[47] Gn.6,11.

[48] Ez.14,13.

[49] Cf.Ez.14,13.

[50] Cf.Mt.13,3sq.

[51] Ez.14,13.

[52] Cf.Mt.13,8.