しかし私たちは、「飢饉」があると直ちに、「死」が続くのではないことを知っておかねばなりません。実際、ある人が、飢えや渇きや赤貧によって苛まれても、それでも「飢饉」を堪え忍び生き長らえることがあり得るのです。「どう猛な獣たちが送り込まれて」も、必ずしもすべての人が滅びるのではなく、逃亡の助けに守られる人もいるのです。また「剣」が切り刻んでも、滅びが止むこともあり得るのです。またある人たちは傷つけられ切断され、いわば無数に切り付けられきり割かれようと、それでも死んだりしないのです。それでいま、かずかずの罰の枚挙の一番最後に、「死」という最後の罰が加えられるのです。最も神聖なる使徒もこのようなことを考えて、次のように言っております。「最後の敵として死が滅ぼされるでしょう[1]」と。私は敢えてこう申し上げたいと思います。「最後の敵として死が滅ぼされる」ということは、「死」に先立って何らかの「敵」が、すなわち「剣」があったということです。「死」に先立って何らかの「敵」、すなわち「最悪の獣たち」がいたということです。「最悪の獣質」に先立って何らかの「敵」が、すなわち「飢饉」があったということです。これらすべての「敵」は、宗教に敵対する者たちの敵です。実際、もしもあなたが、あなたを和解へと招き、使徒をとおして「私はあなたがたがキリストをとおして神と和解するように懇願すると[2]」お語りになった神の友となることを望まないなら、あなたは神についてどのような訴えをするのでしょうか。もろもろの敵の支配下にいることを望んだあなたに責めがあるというのに。ですからあなたは、神がエジプトに「激怒と怒り[3]」そして艱難を、最悪の天使たちをとおしてお送りになったことを知らないのですか。なぜならエジプト人たちは、神の敵となり、神の敵によって支配されていたからです。とにかく「飢饉」、「最悪の獣たち」、「剣」、「死」というこれら四つの罰の責め苦が私たちから遠く離れ去りますように。これらのどれが科せられようとも、それらは、神の敵である者たちに降りかかるのです。それらが神の友である人たちの上に臨むこともあるでしょう。しかしそれらは、神との友情の絆を誇りとする者たちに敢えて触れることはなかったのです。そして「火」についての聖書の証言によりますと、義人たちは火を通り抜けて火に焼かれることがなかったということが信じられているのと同じように――実際「それぞれの人の業は、火によって真価を試されるます[4]」――、これらの責め苦のなかに「ダニエルやノア、そしてヨブ」のような人がいても、その人は決してそれらの罰を被らないでしょう。



[1] 1 Co.15,26.

[2] Cf. 2 Co.5,20.

[3] Cf.Ex.15,7sq.

[4] 1 Co.3,13.

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