私たちはこれらの責め苦を一つひとつ特別に説明してきました。預言者はこれらの責め苦を最後の部分で一つにまとめて言っています。すなわち、「主なる神がこれらのことを言われる。しかしもしも私が、剣、飢饉、最悪の獣、そして死とというこれら四つの私の最悪の罰を送り込むなら[1]」と。どこに送り込むのでしょうか。地の上にではありません。「エルサレムに[2]」です。実際、「地」が罰せられるとき、地には一つの懲らしめで十分です。しかしエルサレムが懲らしめられるとき、エルサレムでは神の名が呼ばわれるのですから、「四つの責め苦」が一度に加えられるのです。一旦信じた後で再びむかし犯した罪に戻るより、神のみ言葉を信じなかった方が私たちにとってはるかに有益だったでしょう[3]。あなたは、どうして聖書が、「地の上に」責め苦が一つひとつ加えられると言うこと、その「地」という言葉を付け加えないのかお考えください。ところがエルサレムとなると聖書は、「しかしもしも私がエルサレムに、剣、飢饉、最悪の獣、そして死とというこれら四つの私の最悪の罰を送り込むなら[4]」と言っています。それは、私たちがエルサレムであることを示しています。なぜなら私たちは、罪を犯せば、滅ぼされるエルサレムだからであり、掟のうちに留まるなら、救われるエルサレムと言われているからです。私たちがエルサレムについて読むすべての嘆き、神がエルサレムについて愁うすべての悲哀は、私たちに関係しています。私たちは、「神のみ言葉を味わった[5]」のに、その後、神の言い付けに反することを行なってしまったからです。ソロモンの法を蔑ろにした人は、このように懲らしめられません。リュクルゴスの勅令に背いた人もこのようには罰せられません。モーセによって伝えられた神の律法を踏みにじり蔑む人の責め苦とは違うのです。すべてのものの中でもっとも重い罰は、神のおん子の掟を無に帰す人の罰なのです。「モーセの律法を無にする者は誰でも、二人または三人の承認によって情け容赦なく死罪に処せられる。いわんやあなたがたは、神のおん子を踏み付ける者は、さらにひどい罰に値すると思いませんか[6]」。ですから私たちが枚挙した人々は、「神のおん子」を踏み付けたのではありません。彼らはただ神の律法を破っただけです。主の到来以前にいた人たちは特にそうです。しかし私の救い主を十字架に付けた人たちも、使徒が次のように言う人たちほど大きな罰を受けません。使徒は言います。「神のおん子を踏み付け、恵みの霊に侮辱」や、さらにパウロが同じ個所で挙げているその他のことを「行なう者[7]」と言っています。パウロはこの個所で、神を信じたあとで罪を犯した者たちのかずかずの罪を明らかにしています[8]



[1] Ez.14,21.

[2] Ez.14,21.

[3] Cf. 2 P.2,21.

[4] Ez.14,21.

[5] Cf.He.6,5.

[6] He.10,28.29.

[7] He.10,29.

[8] Cf.He.10,26.

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