以上は、「エルサレムの上に」加えられる「四つの最悪の罰」に関して述べてみたものです。そして神の書物に親しむ私たちもみな、善く生きようと悪く生きようと、たしかにエルサレムなのです。もしも私たちが悪く生きるなら、私たちは、かずかずの責め苦によって罰せられ、「四つの罰」を受けるエルサレムなのです。もしも私たちが善く生きるなら、私たちは神の懐に安らうエルサレムなのです[1]。そしてその他の地におけるのと同様に、エルサレムそれ自体にも大きな違いがあるのです。実際、教会のなかにいる罪人たち、すなわち「神のみ言葉を味わった」のちそれを破った者たちは、たしかに責め苦に値しますが、各々の人は、(罪の)度合いに応じて責め苦を受けるでしょう。教会を主催する人が、過失を犯した場合には、もっと大きな罰を受けます[2]。彼に比べてみるならば、忠実な要理教育者は、もっと大きな憐れみに値するのではないでしょうか。助祭と比較してみますなら、一般信徒はもっと大きな赦しに値するのではないでしょうか。また司祭と比較してみますなら、助祭はもっと大きな赦しに値するのではないでしょうか。その他の帰結につきましても、私が黙っていても、あなたがたはお分かりいただけるでしょう。ですから私は、神の裁きを恐れつつ、そして聖書に含まれている裁きの順番を眼前に置きながら、次の言葉を思い起こします。「あなたに過ぎた重荷を背負ってはいけない[3]」、さらに「不正を取り除く力もないのに、裁き人になろうとしてはならない[4]」と。一体、私が第一の座を占め、司教座に座ってふんずりかえり、もっと偉大な人が受けるべき名誉を得ても、私が、その威厳にふさわしい業を持つことができなければ、何の役に立つでしょうか。私はもっと大きな罰に苦しめられるのではないでしょうか。なぜなら、すべての人から義人としての名誉が私に与えられているのに、私は罪人となるからです。「大地」の四つ罰について言われたことをより注意深く検討する人は、また次のことを考えるのも必然だったのです。すなわち、エルサレムはベニヤミン族のなかにあり、神殿の祭司たちと、神に奉仕するレビ人たち、そして聖書のみ言葉が含んでいるその他の階級の人たちは、エルサレムのなかに暮らしていました。このエルサレムは、「四つの最悪の罰」を受けますが、これらの罰は、エルサレムに住んでいる人たちのなかで同じなのではありません。また脅かしは、同じ仕方で、民とレビ人に向けられるのではありません。イスラエルの人は罪を犯せば、イスラエルに固有の過失に陥ります。しかしイルラエルの住人よりも偉大な人は、階級が高貴なほど、すなわちレビ人と祭司は、それだけ多くの責め苦を受けるでしょう。しかし「もしも」祭司たちの頭が「罪を犯したなら」と――彼自身祭司であるエリは、この祭司長に言っています――「もしも人が人に対して罪を犯しても、人々か彼のために祈ってくれよう。しかしもしも主に対して罪を犯したなら、誰が彼のために祈るのだろうか[5]」と。以上は、(四つの)「罰が罪深い地に対して」、特に一つひとつ罰が警告され、同様に不幸なエルサレムに対しては四つまとめて警告されていることに関して、その説明として述べてみたものです。



[1] Cf.Ga.4,26.

[2] 省略

[3] Si.13,2.

[4] Si.7,6.

[5] Cf.1 S.2,25.

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