第6講話

「人の子らよ、エルサレムにその忌まわしいことを知らせなさい」から、「お前は、通り過ぎるすべての者に姦淫を注いだ」まで。

 

 私が預言者たちの堅忍不抜を考察しまたら、彼らがどのようにして人間たちではなく神を本当に信頼し、死やもろもろの危険、非難、そして非難した人たちから受けたすべてのことを物ともせず、なおかつ預言しつつ神のご意思に仕えたのかを考えて、驚きの襲われてしまいました[1]。私はかつて、エゼキエルを(イザヤと)比較する前に、イザヤに驚嘆してしまいました。そしてイザヤが次のように言うのを聞いてすっかり胆を潰してしまいました。彼はこう言っています。「ソドムの支配者たちよ、神の言葉を聞け。ゴモラの民よ、主の掟に耳を傾けよ。お前たちの数多くの生け贄が、私にとって何になるのかと、主は言われる[2]」と。たしかに彼はこれらの言葉を言いましたが、語ることも黙ることもできたのです。実際ある人たちが推測しますように、これらの預言は精神を超えて、()霊に促されて無理矢理語られたのではありません[3]。使徒は、「もしも他の座っている人に啓示がなされたら、先の人は黙りなさい[4]」と言っていました[5]。このことから(預言を)語る人は、望むときに語り、望むときに「黙る」力を持っていることが明らかとなります。そしてバルラアムにも次のようなことが言われています。「しかし、私がお前の口のなかに置く言葉がある。これを語るようにしなさい[6]」と。それはあたかも彼が、神のみ言葉を受けた後、それを語ることもできるし黙ることもできる権限を持っているかのようです。では、私がエゼキエルの何をほめたたえているのでしょう。それは、「エルサレムにそのもろもろの不正」を知らせ「証拠立てよ」という命令が彼に下されたとき[7]、彼が、宣教によって生ずる危険を眼中に置かず、ただ神の戒めを守るために、神がお命じなったことをすべて語ったということです。たしかにこれは神父です。確かにこれは、エルサレムおよびエルサレムに関して言われるすべてのことに関する神聖な理解の啓示です。それにもかかわらず彼は預言をし、「姦淫」のことでエルサレムを譴責したのです。エゼキエルは、「(エルサレムは)通り過ぎるすべての人に両脚を広げた[8]」からので、呪いの言葉をもってこれを明らかにし、罪に満ちたこの町を咎めたのです。しかし彼は、確信をもって神の意志を果たし、死ぬも生きるも覚悟を決めて、恐れることなく語ったのです。



[1] 省略

[2] Is.1,10.11.

[3] Cf.De princ.III 3,4.

[4] 1 Co.14,30.

[5] 省略

[6] Cf. b.23,5.16.

[7] Cf.16,2.

[8] Cf.Ez.16,25.

 

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