では私たちは、預言そのものを見て、まずどうして「語ったり」語らなかったりすることが預言者の権限内に置かれていたかを考察してみることにしましょう。「主の言葉が彼に臨み、次のように言った。『人の子よ、エルサレムにそのもろもろの不正を知らせよ、そしてお前は、主がこう言われると言う』と[1]」。主は、「エルサレムにそのもろもろの不正を知らせよ」という言葉を、霊感の必然性の内に置いたのではなく、語るという意志の内に置きました。そして「お前は言う」と言っています。「お前は」何を「言う」のでしょうか。それは引き続く個所にあります。言うか言わないかは、ヨナの場合と同じように、「お前は言う」という言葉を聞いた預言者の内にある(ことがわかります)。実際、「言う」か黙るかの意志は、「お前は、あと三日もすればニネベの町は滅ぼされる[2]」という言葉を聞いた預言者の内にあったのです。そして「語る」ことが彼の意志の内にあり、しかも彼が「語ろう」と望まなかったので、どれほどの結末がこの後彼に起こったかご覧ください。彼のゆえに「船は危険にさらされ」、身を潜めていた彼は「くじ」によって見付けられ、「(海に)投げ出された彼は海獣に飲み込まれました[3]」。ですから彼の後に来たどの預言者も、おそらく彼に起こったことあるいは他の預言者たちに起こったこと考えて、彼らにあらゆるところから艱難が差し迫っていたことを悟ったでしょう。すなわち彼らが真実を語れば、世間から迫害され、人間たちを恐れて真理に代えて偽りを言えば、神を侮辱することになるのです。



[1] Ez.16,2.3.

[2] Cf. Jon.3,2.5.

[3] Cf.Jon.1,4.5.7.15;2,1.

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