「塩で味付けされなかった[1]」。そしてエルサレムの罪はこれ、すなわち、エルサレムが神の「塩」にふさわしくならなかったことです。もしもこの私が、私の主イエズス・キリストを信じたのであれば、イエズスは私を「塩」に変えて、私にこう言うでしょう。「あなたたちは地の塩である[2]」と。もしも私が使徒において語った「聖霊[3]」を信じてのであれば、私は「塩によって味付けら」、次のように言う掟を守ることができます。すなわち「あなたがたの言葉は常に恵みの中にあり、塩で味付けられていなければなりません[4]」と。「塩によって味付けられる」ことはすばらしいことです。「塩で味付けられる」人は、「恵み」に満たされているのです。実際、ありふれた諺にもありますように、恵み深い人は塩味が効いていると言われ、これと反対に「恵み」のない人は塩味が効いていないと言われています。ですかわもしも私たちに、神からの「恵み」が来て、私たちがその「賜物」に満たされるなら、「私たちは塩で味付けされる」ことになるのです。次に、罪深い「エルサレムは、布にくるまれなかった[5]」とあります。あなたは、私たちが言うことをよくお考えください。生まれ変わり始めて洗礼盤から生まれた人は、「布に包まれます」。ルカによる福音にも書き記され報告されていますように、私の主イエズスご自身も「布に包まれました[6]」。ですから生まれ変わった人は、キリストに結ばれて生まれ変わったわけですから、「理性的な清い乳を望ま[7]」なければなりません。しかも「お前は塩で味付けされず、布に包まれもしなかった」と言われないように、「理性的で偽りのない乳を望む」前に、「塩で味付けされ」、「布の覆い」に包まれなければなりません。エルサレムの罪が「へその緒を切られなかったこと」、「塩で味付けられなかったこと」、「布に包まれなかったこと」であるのを、残りの言葉が示しています。それは次のように述べています。「お前に目をかけて、お前のためにこれらすべてのことの一つでも行う者はいない[8]」と。それゆえ「私は、お前のために何らかの苦しみを覚え」、これらのことを一つも「行わなかった[9]」と、主は言われます[10]。私は人々の中から例を取って、それから聖霊が許してくださるなら、イエズス・キリストに、そしておん父なる神に移っていくことにしましょう。私が何らかのことである人と話をし、私を憐れんでもらうようその人にお願いするとき、もしもその人に憐れみの心がなければ、私によって語られたことで苦しむことはまったくないでしょう。しかしもしもその人の魂が柔和で、無慈悲な心でいささかも頑なになっていなければ、その人は、私に耳を傾け、私を憐れみ、私の懇願のゆえに腸を痛めることでしょう。どうか救い主についても、何かしらこれと同じようなことをご理解ください。救い主は、私たちの肉を取るのをよし、十字架を苦しむ前に、人類を憐れまれ、それから地上に下り、私たちのかずかずの苦しみを忍ばれたのです。実際、救い主が苦しまれなかったとすれば、人間の生命の交わりにお入りになることはなかったでしょう。救い主は、先ず苦しまれ、それからお下りになり、見られるようになったのです。救い主が私たちのために苦しまれたこの苦しみは何でしょうか。それは愛の苦しみです。宇宙万物の神であるおん父ご自身もまた、「寛大で憐れみ深い方[11]」、憐れみの主ですから、ある意味で苦しまれるのではないでしょうか。それともあなたは、おん父なる神が人間に関する事柄を配慮なさるとき、人間の苦しみを苦しむのを知らないのですか。「あなたの神である主は、ある人間が自分の子を荷うように、あなたの苦悩を荷われたのです[12]」。ですから神は、神のおん子が私たちの数々の苦しみを荷うように、私たちの「苦悩を荷われた」のです。おん父ご自身、苦しまれない方ではございません[13]。おん父なる神は、もしも懇願されれば、憐れみを覚え、共に痛み苦しみ、愛の幾ばくかを苦しみ、その本性の偉大さに従えば本来有り得ない状況の中に身を置き、私たちのために人間の苦しみを忍ばれるのです。



[1] Ez.16,4.

[2] Mt.5,13.

[3] Ac.13,9.

[4] Col.4,6.

[5] Ez.16,4.

[6] Lc.2,7.12.

[7] 1P.2,2.

[8] Ez.16,5.

[9] Ez.16,5.

[10] 省略

[11] Cf.Ps.102,8.

[12] Cf.Dt.1,31.

[13] Cf.eg.De Princ.II,4,4.

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