ですから主は、こう言われるのです。「私はお前に目をかけて、お前について何らかの苦しみを覚え、これらのことの一つでもお前のためにすることはない[1]」。そしてお前はそのようになったので、「お前は野の投げ出された[2]」と。神よ、私たちがあなたとあなたの教会から、「野の表に投げ出される」者にならないようにしてください[3]。むしろ私たちが、感覚の狭苦しい隘路から「野」に出られるようにしてください[4]。「そしてお前は、野の表に投げ出された」。なぜでしょうか。「お前が生まれた日の腐敗によって[5]」。一体生まれたその日に、「魂の腐敗」を持つ人があり得るのでしょうか。ところで(この個所は)私たちの諸々の情念や人間の悪徳そして常習的な腐敗を描写しているのです。すなわちもしも心が正しくなければ、私たちは、私たちの「腐敗」によって、私たちの「生まれた日に、野の表に投げ出される[6]」のです。もしも洗礼による再生の後に、もしも神のみ言葉の後に、再び罪を犯すなら、私たちは「生まれた日に、投げ出される」ことになるのです。「第二の再生の洗い[7]」によって洗われたのに、「悔い改めにふさわしい実を結ば[8]」なかったそのような人たちは非常によく見出されます。彼らは、信仰入門講座を受けていたときに抱いていた恐れよりも大きな恐れによって洗礼の神秘を輝かせようとはせず、み言葉の聴講者であったときに行っていた愛徳よりも大きな愛徳によってそれを輝かせようとはせず、以前行っていた行いよりも聖なる行いを持って輝かせようとはしないのです。このようなたぐいの人たちに次のような言葉が続きます。こう言われています。「お前は、生まれた日のお前の魂の腐敗によって、野の表に投げ出された[9]」と。しかしあなたは、神の憐れみをご覧ください。類まれな優しさをご覧ください[10]。「エルサレムが野の表に投げ出され」ても、神は、エルサレムが永久に「投げ出される」ほど蔑むことはありません。神は、エルサレムをすっかり忘れ、倒れ付したエルサレムをもはや起き上がらせないほど、エルサレムをその「腐敗」の中に捨て置くことはないのです。次にどんな言葉が続くか、ご注意ください。「そして私はお前の傍らを通り過ぎた[11]」。「お前は投げ出された」。しかし私は再びお前のもとに戻ってきた。私の訪れは、破滅の後でもお前に欠けることはなかった。



[1] Cf.Ez.16,5.

[2] Ez.16,5.

[3] 省略

[4] Cf.Hom.Lv.15,2.

[5] Ez.16,5.

[6] Ez.16,5.

[7] Cf.Tt.3,5.

[8] Lc.3,8.

[9] Ez.16,5.

[10] 省略

[11] Ez.16,6.

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