次に、「お前は多彩色の服を取り、それで(偶像を)覆った[1]」という言葉が続いています。「多彩色の服」とはここでも、聖書のみ言葉を指しています。私たちはこのみ言葉を身にまとって、憐れみの腸、優しさの腸、謙遜の腸、柔和さの腸、互いに差さえ合うための辛抱の腸を身に着けるのです[2]。神が私たちに惜しみなく与えて下さったこれらの「多彩色の衣」と美しい衣服とを、もしも私たちが引き裂いたり切り裂いたりして、人々を欺くために偽りの教えに貼り付けるなら、私たちは疑いもなく、「多彩色の衣で偶像を覆うことになる」のです。しかしここで言われていることをあなたに理解していただくために、私たちは事柄その物をもっと明瞭に描いてみましょう。マルキオン派の人やバレンチヌスの弟子、あるいはその他誰であれ異端の弁護者をご覧ください。そして彼が、聞き手の人たちの耳に、生活の善良さによって「飾られた」言葉を滑り込ませるために、どのようにして自らの「偶像」を、すなわち彼が作り上げた作り事を、「柔和さ」と貞で「装っているか」お考え下さい。そして彼がこのことを行なったとき、彼が良風ともっともらしい物腰で織り成された「多彩色の衣を取って」、「自ら作り上げたもので偶像を覆い隠したのだ」と、あなたはご理解下さい[3]。それに私の理解では、その振る舞いによって教えを汚している異端者よりも、善き生活を送っている異端者の方がはるかに有害であり、またその教えにおいてより多くの権威を持っているのです。たしかに最悪の生活を送っている者は、人々を偽りの教えに駆り立てるのは容易ではなく、また聖性の見せ掛けによって聞き手の人たちの単純さに付け入ることもできません。ところがその言説において邪悪で、救いの教えとは程遠くても、規則正しく端正な品性を備えている者は、善き習慣と物静かな態度によって織り成された「多彩色の衣服を取って」、聞き手の人たちをもっと欺こうと、それらの衣服で自分の「偶像を囲う」のです。ですから私たちは、もっともらしい振る舞いをする異端者たちに細心の注意を払い警戒しましょう。彼らの生活を躾たのは神ではなく、悪魔なのです。実際、鳥刺が何らかの美味しそうな餌を差し出して、食欲にって鳥をより簡単に捕獲するのと同じように、敢えて言わせてもらいますと、何かしら悪魔の貞潔のようなもの、すなわち人間の魂に付け入る貞潔のようなものが存在して、異端者はこのような貞潔と柔和さそして正義によって(人々の魂を)より簡単に捕らえ、偽りの言説によって罠に掛けることができるのです。悪魔は様々の罠で攻撃を仕掛け、哀れな人間を滅ぼそうとします。そして善良な生活を悪人たちに与えて、(その生活を)見ている人たちを欺き、善良な人たちに悪い気持ちを燃え立たせるのです。悪魔は、教会の中で説教をしているこの私に対しても、私の言動によって全教会を混乱させるために、しばしば罠を張ります。ですから(人々の)中心にいる人たちは敵によって更に多く攻撃を仕掛けられ、人目から逃れることのできない一人の人間の破滅を通してすべての人々に躓きが生じ、聖職者たちの最悪の言動によって信仰が妨げられるようにしているのです。行ってみれば悪魔は、善に見えるものであれそうでないものであれ、本性上悪であるものであれあらゆることを行なっているのです。悪魔は、人間の本性に対してあらゆることを謀っているのです。ですから自分の生活に気を配り、異端者たちの柔和さに捕らわれて彼らの教えに同意しない人は、教会の中で説教しているように見える私の過失に躓くこともないでしょう。そしてその人は、教義そのものを考え、教会の信仰に依りすがりながら、私から離れていくでしょう。しかしその人は、次のように言われる主の掟に従って教えを受け取ることになるのです。主はこう言われております。「律法学者たちとファリサイ派の人たちは、モーセの座に座っている。だから彼らがあなたがたに言うことはすべて聞き、そして行ないなさい。しかし彼らの行いに倣って行なってはならない。彼らは言うには言うが、行なわないからである[4]」と。この言葉は私についてのものです。私は善いことを教えていますが、それと反対のことを行なっています。しかも「私は、律法学者やファリサイ派のように、モーセの座に座っているのです」。ですから、さあ、民の皆さん、あなたがたが極悪の教えや教会とは無縁の教義を避難する理由を持たなかったとしても、私の咎めるべき生活と罪を見出したなら、いま語っている私の生活に倣ってあなた方の生活を始めてはいけません。私の語っていることを行なわなければなりません。私たちは、いかなる人も見習ってはなりません。そしてもしも私たちが誰かを模倣したいと思うなら、私たちには模倣の相手としてキリスト・イエズスが提供されているのです。使徒たちの言行が書き残されています。そして私たちは、預言者たちの行いを聖書から読むことができます。これこそ確かな模範、これこそ確かな目標、これこそ従いたいと願う人が安心して歩む道なのです。これに対してもしも私たちが、互いのあらを探し合って罪深い不品行を競うなら、たとえば彼は教え、しかも彼は自ら教えていることとは反対のことを行なっていると、私たちが言ったとします、そうすると、私たちは主の戒めに背いて行為したことになります。主は、教師たちの生活よりも教師たちの教えを思い巡らさなければならないとお命じなっています。以上のことは、「お前はお前の多彩色の衣を取って、それで覆った」、すなわち「栄光の器」を「それで覆い[5]」、これをお前は偶像に変えたという言葉について語ってみたものです。



[1] Ez.16,18.

[2] Cf.Col.3,12.

[3] 省略

[4] Mt.23,2.3.

[5] Ez.16,18.

次へ