慶長丙午六月十有五日[1]。道春及び信澄[2]、頌遊[3]が价(=介)によ依りて、不意に耶蘇会者不干氏が許[4]に到る。不干、守長<不干の侍者>に命じて、三人を招き室に入らしむ。彼徒は席を満たす。坐が定まり、寒温[5]が已んで(=止んで)後、春[6]は徒斯画像[7]の事を以て問うに、彼を使いて之を言わしむ。対語鶻突(=ついごこくとつ)[8]。蓋し浅近[9]を恐れて之を言わず。又彼円模の地図[10]を見る。春が曰く、「上下の有ること無し乎(=や)」。干が曰く、「地中を以って下と為す。地上は亦天を為す。地下は亦天を為す。吾邦舟を以て大海に運漕す。極東これ西、西極是東。是を以て地の円なるを知る」。春が曰く、「この理は不可也」。地下に豈=あに)天が有らん乎。万物を観るに皆上下有り。彼上下無しと言うが如きは、是理を知らざる也。且つ夫れ(=それ)大洋の中、風有り波有り。舟は西して或いは北、或いは南して又東。舟中の人は、其の方を知らず、以て西行を為す。之を西極、是を東と謂うは不可也。若し舟が東すれば、則ち或いは北、或いは南、又必ず西す。之を極東是を是を西と謂うは不可也。且つ又終に物皆に上下が有る之理を知らず。彼は地中を以て下と為し、地形を円と為す。その惑いは豈悲しからず乎。朱子[11]の所謂(=いわゆる)「天半地下を繞る[12](=めぐる)」。彼は之を知らず。干は又曰く、「南北は有り東西は無し」。春が曰く、「已に是南北が有らば、何ぞ東西無からん耶」。又彼日月行道の図[13]を見るに、一行・沈括[14]の万分に及ばず。蓋し彼は潜に(=ひそかに)大明に在りて渾天の遺則[15]を見て密かに之を模倣するのみ。咲う(=わらう)べし。



[1]    慶長11(1606)年。

[2]    林信澄(15851638)。道春(林羅山)の弟。

[3]    松永貞徳(15711653)。俳人・歌人。

[4]    南蛮寺は、現在の京都市中京区姥柳町202(和光ビル付近)にあり、林道春(林羅山)の屋敷は、京都市中京区百足屋町小路揚がる百足屋394新町錦ビルにあるとされる。両者は、隔たりは僅か190メートル程である。それは、徒歩にして、2〜3分の距離である。なお、姥柳町は「うばやなぎ」、百足屋町は「むかでやちょう」と読む。

[5]    「時候の挨拶が済んでのち」という意味。

[6]    道春。

[7]    「でいす画像」と読む。「でいす」は、Deusに対する中国天主教の当て字。Deusは不可視であるから、画像はキリスト像である

[8]    答えが要領を得ないこと。

[9]   「せんきん」。浅薄さ。

[10]   「えんも」の地図。円形の地図、すなわち地球儀。

[11] (11301200)。南宋の儒者。朱子学の祖。

[12]   天の半分は地下をめぐり囲んでいるとする世界観。

[13]   天球図。

[14]   「一行」(いちぎょう)は唐代の高僧、天文暦数に精通。「沈括」(しんかつ)は北宋の学者(10301094)で、天文・易算に精通。

[15]   漢代以来の渾天義(天体の運行を示す機械)による法則。

 

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