春問うて曰く、利瑪竇<耶蘇会者>[1]、「天地、鬼神及び人の霊魂は、始め有り終り無し[2]」と。吾は信ぜず。始め有れば則ち終り有り。始め無く終り無きは可なり。始め有り終り無き不可なり。然れば又証すべき者が殊に有る乎。干は答うること能わず。春は曰く、「天主が万物を造ると云々。天主を造る者は誰ぞ耶」。干は曰く、「天主は始め無く終わり無し」と。天地は造作すと曰う。天主は始め無く終わり無しと曰う。此の如き遁辞(=言い逃れ)は、弁ぜずして明かなるべき也。春は曰く、「理と天主に前後が有る乎」。干は曰く、「天主は体也。理は用也。体は前、理は後也」。春は、面前の器を指して曰く、「器は体也、器を作る所以は理也。然れば則ち理は前にして天主は後也」。干は解せず曰く、「燈(=ともしび)は体也、光は理也」。春は曰く、「光が燈を為す所以は理なり。光は理に非ざる也。唯之を光と云う已(=のみ)」と。干は猶解せず曰く、「器を作るの一念が起こる処が理を為す。一念が起こらざる以前は、元無想無念にして体が有り。然れば則ち体は前、理は後ろ也」。春は曰く、「不可也。無想無念と謂わず、唯理と天主と言う已(=のみ)。無念無想の時、理が有りて在す」。頌遊が笑いて曰く、「問いは高くして答えは卑(=ひく)し」。彼の解せざるは、信に(=まことに)(=むべ)なる哉(=かな)



[1]    マテオ・リッチMatteo Ricci(15521610)リッチはヴァリニャーノの指示に従い、順応政策をとり ラテン語のデウスの漢語訳として「天主」を用いた。 リッチの考えでは、中国の伝統的な用語である「天」や「上帝」は、キリスト教の観念と一致するものだった。ザビエルも来日当初、デウスに「大日」という仏教語を宛てている。

[2] 利瑪竇『天主実義』首篇:「有始無終者、天地鬼神及人之霊魂是也」。

 

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