1601年〜1605年

1601年、島津藩の家臣ファン・サンダユが、マニラのサント・ドミンゴ修道院院長フランシスコ・デ・モラーレス神父に面会(同年の聖金曜日)。数日後、ロザリオ管区管区長ファン・デ・オルマーサ神父に面会。管区長は、宣教師派遣と貿易に関して、大名宛てに書簡を書く。藩主島津家久(旧名・島津忠恒)は、1601年8月22日付の返書で、宣教師受け入れの許可を告げ、迎えの船を派遣。

これを受けて、フィリピンのロザリオ管区の管区会議は、宣教師の派遣を決定。

1602年7月3日、第1次宣教団来日。計5名。

福者フランシスコ・デ・モラーレス神父(15671622)

15671014日カスティリア王国の王立最高裁判所検事の息子としてマドリッドで生まれる。ヴァリャドリッドにあるドミニコ会サン・パブロ修道院に入り、同市のサン・グレゴリオ学院で哲学と神学を修めた。1597年夏の初め頃、フィリピンに向けて出航。15985月半ばマニラに上陸。1598年サント・ドミンゴ修道院付属神学院教養学科教授兼学生係。1600年神学講師とスペイン語の説教師。1601年修道院長。1602年主席理事となり、日本宣教団の初代管区長代理(16021609)160261日日本に向けて出航。1602年7月3日甑島に到着。大名に挨拶の後、11月始めに甑島に戻り、日本家屋を改造した下甑にサント・ドミンゴ修道院・教会を設置(16021216058149)。次に、上甑にサント・ドミンゴ・ロザリオの聖母修道院・教会建設(16058151605829)16067月九州本土の京泊(鹿児島県川内市)にサント・ドミンゴ・ロザリオの聖母修道院・教会建設(16067216095)1608年春から1609年春まで、薩摩藩の大名の命によって将軍を謁見。その間に薩摩藩の大名はキリスト教の迫害を開始し、16095月宣教師たちも追放された(サルバネス神父→京都、オルファネル神父→佐賀)1610年モラレス神父は長崎の外町と呼ばれる新市街にサント・ドミンゴ教会と修道院を建設。1614116日、宣教師追放令によって国外に追放されるが、長崎代官アントニオ村山当安の援助で、密かに入国。以後、当安の息子アンドレス村山徳安(フランシスコ村山神父の兄弟)の保護を受ける(宿主)16176月再び管区長代理(16171619)となり、『聖ドミニコ信徒会』『ロザリオの組』『イエスのみ名の組』『愛徳の組』などの信心会の指導責任者となる。1619315日徳安の家で逮捕され、長崎牢に入牢。88日大村の鈴田牢に移送。325日壱岐島の牢に移送。しかし牢内からも手紙や使いの者を介して使徒職を遂行。1622910日、長崎の西坂の丘で弱い火で焼かれる。186777日ピオ9世によって列福され、日本205福者殉教者の名簿の筆頭に挙げられた。

※トマース・エルナンデス神父

16027316044滞在、病気により離日

福者アロンソ・デ・メーナ神父(15871622)

157823日スペイン・ログローニョに生まれる。福者アロンソ・デ・ナヴァレテの従兄弟。やがて、サラマンカ司教座聖堂付き司祭である伯父に招かれ、ドミニコ会のサン・エステバン教会に入院。1594323日初誓願。1597年規定の勉学を終了しないまま、フィリピンに向けて出発。15985月フィリピン到着。当地で神学を修め、司祭に叙階される。最初の使命は、マニラ城外のビノンド地区・中国人街での福音宣教。中国語を覚える。160261日、日本に向けて出発。160273日、来日。1603年、中国語が話せるという理由で、徳川家康に謁見。正式に滞在許可を得る。薩摩藩主の依頼に応じて1604年初めフィリピンに渡り、貿易船を手配するが、遭難により失敗。1604年7月、新たにファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエーダ神父を伴って再来日。16078月下旬、肥前(佐賀県)藩主から領内での布教と教会建築の許可を得る。泊町(佐賀)にヌエストウラ・セニョラ修道院・教会(16071613108)、鹿島(佐賀)にサン・ビンセンテ教会(1608561613108)、佐嘉(佐賀)にサン・パブロ教会(160851613108)を建設。1613118日将軍の厳命により、佐賀から追放され、長崎に移る。しかし同年12月半ば頃、変装して浜町、肥前鹿島、佐賀を巡回。長崎では、肥前から追放されたキリシタンの世話をする。彼らは『メナ神父の組』と呼ばれた。村山当安の次男ファン忠安の家に住む。肥前、筑後、筑前の諸地方を巡回。1619314日、密告によって長崎のファ正左衛門素雲というキリシタンの家で逮捕される。翌日の315日にはモラレス神父も捕らえられる。325日壱岐島の牢に移送。88日長崎の鈴田牢に移送。入牢中は病に苦しめられていたが、多くの手紙と報告書を書き、ほとんど盲目になっていた。1622910日長崎の西坂で、メーナ神父とともに処刑さる(火炙りの刑)186777日ピオ9世によって列福。

福者トマース・デ・スマラガ神父(15771622)

157739日スペイン、アラバのバスコ人の首都ヴィットリアに生まれ、次の日に洗礼を受けた。1593年、16歳で入院。1594119日初誓願。ヴァリャドリッドのサン・パブロ修道院で規定の学問を終え、1596914日に同じ町のサン・グレゴリオ学院で研究を開始。1600年司祭叙階。1601年メキシコに向けて出発。1602430日マニラ到着。管区議会によって日本に派遣されることが決定。160261日マニラを出発。160273日鹿児島県の西北にある小さな甑群島に属する長浜に上陸。16021128日報告のために鹿児島からフィリピンに向かおうとしたが、翌日の29日に船火事が起こり、薩摩に引き返さなければならなかった。1603年再び挑戦するが、今度は嵐に遭ってインドシナ半島まで流された。やがて三隻の日本船とマカオのポルトガル船に出会い、スマラガはマニラに行けないのは神の摂理であるとして、ペストに犯されていた停泊中の日本船(ベルナルドという日本人キリスト教徒所有の300名の乗員の船)に移った。スマラガ神父は、ペストかかった日本人を介護しながら日本に戻った。160510月始め、京都に一つの教会を建てる使命を委ねられたが、計画の実現は難しく、一ヶ月以上もメナ神父と共に大村、平戸のキリシタンの世話をした。1606年京泊のサント・ドミンンゴ・ロザリオの聖母修道院院長に任命さる。16084月から16097月までマニラの管区会議に出席。その後肥前で布教。やがてホセ・デ・サン・ハシント・サルバネス神父が院長を務める京都ロザリオの聖母修道院に配属され、長崎の宣教師たちに対する迫害が始まる161310月半ばまで、京都にいた。1614127日宣教師国外追放令。16143月管区長代理に任命され、長崎に戻る。同年11月の追放を辛うじて逃れ、潜伏に成功。1615年夏の初め、管区長代理を終わり、京都オザリオの聖母修道院(16101251614)院長だったホセ・デ・サン・ハシント・サルバネス神父を看病するために京都に赴き、伏見に隠れ家を準備。1617年3月迫害の嵐が吹き荒れたため、サルバネス神父と共に京都から長崎に移動。同年の6月始め頃大村地方で使徒職に従事。1617723日捕らえられて鈴田牢に入牢。5年間の獄中生活の末、1622912日大村の放虎原刑場にて火炙りの刑。186777日ピオ9世によって列福された。

※ファン・デ・ラ・アバディーア修道士

16027316063在日

1602年7月3日

第一次宣教団、鹿児島県甑島の一村落に到着(現在の長浜町)。宿舎として当地でも有名なある寺を借り受け、そこに祭壇と聖母の画像を設置。数日後、鹿児島の島津家の居城で、藩主島津家久に謁見(帖佐)。滞在先のある武士の家を祈祷所にする。8月から11月まで城下に滞在。(同年、アウグスティノ会宣教師来日)

1602年11月

甑島(下甑)に教会と修道院を兼ねる一軒家を建設する許可を得る。資金不足のため、辛うじて夜露を凌げるだけの藁造りの粗末な家だった。サント・ドミンゴ修道院・教会

家康への気兼ねから、鹿児島本島での建設許可はおりなかった。

○甑島の教会での生活

会憲に規定された修道生活。村人たちによる食糧援助。日本語の学習、しかし辛酸を舐めた。しかし万難を排して、島津領の諸村に入り布教を行った。薩摩藩内には、九州北部、特に肥後藩(藩主加藤清正)から迫害を逃れてきたキリシタン難民が多かった。しかし島内での宣教は捗々しくなかった(2名の洗礼者のみ)。島の人口は当時約1300人で、15の村があった。

1602,11/28(船火事)1603,3(嵐、海賊、ペスト)の二度、トマース・デ・スマラガ神父を報告のためにマニラに派遣しようとしたが、失敗。

1603年

徳川家康が征夷大将軍となると、島津忠恒は伏見の徳川家康に面会して和解した(家久と改名)。かれは、家康の指示により、ドミニコ会員の上洛をモラーレスに要請。モラーレスは、アロンソ・デ・メーナ神父を伏見に派遣。家康は京都に教会を建てることを勧告するが、人材と資金の不足のため延期(1609年建設)。家康の好意的態度を見て、島津家久は、メーナ神父にマニラへ行って貿易船をよこすことを要請。

1604年

この年の始め、フランシスコ・デ・モラーレス、目の治療のために長崎に行く。効果的な宣教活動(説教と聴罪)をし、「ロザリオの組」を創設。2万人以上の会員。長崎の富豪で代官のアントニオ村山当安と知り合う。息子のフランシスコ村山は、1602年に教区司祭となる。

1604年5月6日からマニラで開催される管区選挙会議に間に合うように、アロンソ・デ・メーナ神父と病弱のトマース・デ・エルナンデス神父を派遣(かれはそのままマニラに残り、1642年当地で没した)。貿易船派遣の要請が主な目的(薩摩藩の要求による)。マニラで開かれた管区会議によって、フランシスコ・デ・モラーレスを下甑のサント・ドミンゴ修道院院長とし、副管区を設置(決議第4)

1604年7月

マニラに戻ったアロンソ・デ・メーナ神父は、新任のファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエーダ神父(1604・7―16203)を伴って再来日。

1605年春から夏の初め

薩摩藩の要請による貿易船が、ロザリオ管区の負担で、鹿児島に到着したが、嵐のために船が鹿児島浩の岸壁に叩き付けられて積み荷の大半を流失。船長はスペイン人商人ディエゴ・ホルヘ。スマラガ神父は、16051110日付け書簡でこう述べている。「薩摩のことは(神がこの仕事にあわれみを示さないなら)船が来なくなると失敗に終わるでしょう。しかしスペイン人は今度で懲りているから、また日本に来るかどうかは難しいところです」。

1605年

藩主島津家久は、この貿易船の来航に感謝して、ドミニコ会のために新たな土地と・教会・修道院を寄進した(多数の蝋燭と200人の使用人あるいは米200俵の俸禄の提供は固辞)。→ サント・ドミンゴ・ロザリオの聖母修道院・教会、1605年8月15(聖母被昇天の祝日)、下甑(里村町)で落成式。しかし14日後の8月29日に台風で倒壊してしまった。他方、薩摩藩内における将来のキリシタン迫害に備えて(貿易船が来航しなければ迫害は確実であった)、安全な場所を探すために、スランシスコ・デ・モラーレスは、160511月初め、アロンソ・デ・メーナとトマース・デ・スマラガを京都に派遣しようとしたが、徳川秀忠の京都上京を戦乱の前兆と考えて、大村に留まり、11月下旬に京泊まりに戻ってくる。当時、大村を治めていたサンチョ大村喜前は、政治経済上の理由で背教しイエス会を弾圧し、排除していた。

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