1606年〜1610年

1606年2月24日

ファン・デ・ルエダ神父は、同日付け書簡で、薩摩本土での宣教に関連して次のように述べている。「知るべきことをほとんど知らないキリスト教徒が多いので、日曜に公教要理について教える必要があると思われます。説教中でもよいし他の方法によってもよいのですが」。

1606年3月

ファン・デ・ラ・アバディーナ修道士とトーマス・エルナンデス神父は、疲労と病気のためマニラに帰った。トーマス神父は、病気が癒えずに1642年マニラで没し、ファンは、「ドミニコ会士の日本入国1602年」という報告書を書いて、1606年スペインへ帰った。

1606年7月

メーナ神父は、前年倒壊した教会に代えて、大名の許可の下、九州本土の京泊の港の見渡せる小高い丘の上に、二軒の寺に挟まれるような形で教会を建設した。→ 160672(聖母ご訪問の祝日)にサント・ドミンゴ・ロザリオの聖母修道院・教会を献堂(16067216095)

1606年9月

肥前(佐賀)での布教開始:江戸へ向かっていたフィリピン総督使節のスペイン船が嵐のために佐賀の深堀に強制入港したとき(8月27)、その船長ドン・フランシスコ・モレーノ・ドノーソとアロンソ・デ・メーナ神父が偶然であったのがきっかけ。船長ドン・フランシスコ・モレーノ・ドノーソや深堀の領主鍋島七左衛門と佐嘉の大名鍋島勝茂の好意と援助により、幾つかの修道院と教会が佐賀県内に建てられた。

1607年7月

佐賀の浜町に、ロザリオの聖母教会とサント・ドミンゴ修道院を建設。

ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父が院長。

ファン・デ・サン・ハシント修道士が教会勤務(16076月来日)

1608年5月

佐賀の鹿島に、サン・ビンセンテ教会を建設。浜町の北にある。

佐賀の佐嘉に、サン・パブロ教会を建設。

*清貧を重んじた神父たちは、佐賀では「捨身のパードレ」と呼ばれた。しかし佐賀での布教が順調に行われたのは、徳川家康の圧力がかかる1613年の夏まで。

 


3.第2次宣教団

1607年6月、第2次宣教団来日。3名。

福者ホセ・サン・ハシント・サルバネス神父、1580―1622

158033日、スペインのマドリッド近郊で生まれる。1597年に入会。1605年7月メキシコに出発。当地に、ハシント・オルファネル神父と2年滞在。1607年5月マニラ到着。16076月日本到着。京泊のサント・ドミンゴ・ロザリオの聖母修道院・教会に赴任。しかし家臣の受洗を固く禁止していた薩摩藩は、この禁令の違反を契機にキリシタン(特にキリシタンの武士に対する)弾圧を開始する。領内で信者になった家臣は死罪、他国から来て藩主に仕えるようになった武士は追放。宣教師の間では、迫害の元凶は現大名島津家久の父義弘であると見なされていた。16081117日鹿児島県内で最初の殉教者が出た。彼は薩摩藩の家臣で、レオン税所七右衛門と言い、フランシスコ・モラーレス神父の指導を受け、1608722日にハシント・オルファネル神父から洗礼を受けていた。ドミニコ会最初の殉教者でもある。かれは、その殉教の数日前にサルバネス神父に合い、告解の約束をしたが、果たせなかった。16094月薩摩藩から追放され、今度は京都に派遣される。1610125日「都のロザリオの聖母修道院・教会」を設立し、同年7月6日大阪にサント・ドミンゴ教会を設立した。このときの協働者は、トマース・デ・スマラガ神父(1613年まで)とアルフォンソ・ナヴァレテ神父(数ヶ月だけ)であった。サルバネス神父は、京阪神で活発な布教活動を進めたが、突然キリスト教の迫害が起こり、長崎に避難。1614年のキリシタン国外追放令(徳川秀忠)を無視して京都に再び潜入。

1615年の大阪夏の陣後に肺病を煩って長崎で療養。1619年、管区長代理。1621年8月17日大村の滞在先で逮捕。1622910日に火炙りの刑を受ける。

※福者ハシント・オルファネル神父

157811月8日スペインで生まれる。1601年誓願宣立。司祭に叙階され、1605年メキシコに渡り、16075月マニラに到着。到着して一ヶ月後に同行のホセ・サン・ハシント神父と共に日本宣教を命じられる。1607年6月到着、京泊の修道院教会を拠点にして鹿児島県内で布教に努める。1608年7月22日薩摩藩士レオン税所七右衛門に洗礼を授けた(同年1117日殉教)1609年肥前(佐賀)に派遣され、1613年佐賀を追放され長崎移る。161411月6日キリシタン国外追放令によって追放されるが、アントニオ村山当安の手配した船に沖合いで乗り移り、長崎に再び潜入する。以後鹿児島を除く九州全域で活動する。特に1616年の春以来、フランシスコ・モラーレスの創設した(1604)『ロザリオの組』の指導を引継ぎいた。これは日本におけるキリスト教の将来に限りない重要性を持っていた。また、1618年から1621年にかけて、古賀で『1602年以降の日本キリスト教会の出来事に関する報告書』を執筆し、『日本教会史(16021620)』の資料の元を提供した。1621年大村での巡回宣教から長崎に帰る途中で逮捕され、1622910日、長崎の西坂で火炙りの刑となった。

※ファン・デ・サン・ハシント修道士

16076月鹿児島に来日して佐嘉(佐賀)へ行く。1611年マニラの管区本部から呼ばれて出国。

1608年3月

1604426日のロザリオ管区選挙会議に出席するために、トマース・デ・スマラガ神父がマニラに向かう。

1608年8月

フランシスコ・モラーレスは、薩摩藩主の要請により駿府の元将軍・徳川家康を訪ねる。家康は、ドミニコ会士に日本国内での居住と説教を内諾し、長崎に教会を建築する特許状を与えた。その後モラーレスは、家康の重臣・本多上野介の仲介を得て、江戸の将軍徳川秀忠に会う。秀忠は、尊敬の印として冬用の絹の綿入れの衣服を何枚か与えた。

1603年アロンソ・デ・メーナ神父、伏見で家康。

1608年7月22日

フランシスコ・モラーレス神父から教えを受けていた薩摩藩士レオン税所七右衛門(庄内の城主・本川作左衛門の直臣)が、ハシント・オルファネル神父から洗礼を授かる。

1608年11月17日

レオン税所七右衛門、斬首さる。二日後、彼の遺体は、掘り出されて、京泊の修道院教会の中庭に埋葬された。鹿児島県における、そして日本におけるドミニコ会の最初の殉教者。

1609年

フィリピン前総督ドン・ロドリーゴ・ビベロ・デ・ベラスコスが、メキシコへの帰途、遭難し、上総国の岩和田に300名と共に漂着。ドン・ロドリーゴは、駿府で家康に、江戸で秀忠に会見し、メキシコ(およびフィリピン)との通商協定を結ぶ。また鉱山技師の招聘を要請。このとき、家康は、フランシスコ会士の長アロンソ・ムニョースを通じてスペイン国王とメキシコ副王に外交文書を送った。協定書は、フランシスコ会士ルイス・ソテーロが西訳し、その訳文をフランシスコ会・アウグスチノ会・ドミニコ会の三神父が検討した。ドミニコ会の神父は、京都にいたホセ・デ・サン・ハシント・サルバネス神父である。161031日サルバネスは、ソテーロの訳文を正しいと評価した。その協定には次の条項がある。「追記・神父たちは日本中どこでも住むことができる」。Orfanel (Jacinto),o.p., Historia Eclesiastica de los sucesos de la Cristiandad de Japon,c.6; Mena (Alonso de),o.p.,Breve relacion de algunas cosas,ff.111; Alvarez-Taladriz (J.L.) La razon de Estado y la Persecucion del Cristianismo en Japon (51), pp.73-74.ドン・ドロリーゴ・ビベロ・デ・ベラスコ前総督とアロンソ・ムニョース神父は、161081日に日本を去った。

1609年2月21日

京泊の住民は修道院・教会に行くことを禁止された。

1609年4月初旬

フランシスコ・モラーレス神父が駿府から京泊に戻るが、大御所や将軍からの滞在許可は薩摩藩では役に立たなかった。(各々の藩は、幕府の根本政策に反しない限り、自由な統治ができた)

1609年5月2日

薩摩藩主島津家久は、藩の掟に反して家臣を改宗させ、マニラからの商人を連れてくるという約束をきちんと果たさなかった、という理由で、薩摩藩からの宣教師の退去命令を出す。京泊の修道院・教会への襲撃の危険が高まった。そこで、フランシスコ・モラーレス神父は、アロンソ・デ・メーナ神父、ファン・デ・ルエダ神父、ファン・デ・サン・ハシント修道士のいる肥前(佐賀)へ、ハシント・オルファネル神父を派遣し、徳川家康から得た許可を利用して、ホセ・デ・サン・ハシント神父を京都へ派遣した。また、修道院と教会を解体し、京泊に設けた癩療養所の患者たちを連れて、殉教者レオンの遺体とともに、4隻の船で長崎へ向かった(1隻は自分自身とハンセン氏病患者のため。3隻は教会の建築材料などの荷物)

長崎に着いたモラーレス神父は、レオンの遺体をスランシスコ会の教会に委ね、持ってきた聖像と装飾品を長崎代官アントニオ村山当安の息子・アンドレース村山トクアンに預けた。モラーレス神父は、前年駿府の徳川家康を訪ねたとき下された長崎での教会建築許可を利用して、すぐに教会を組み立てた。モラーレス神父はこう書いている。

「よい土地を手に入れ、直ちにそこで薩摩から持ってきた教会を組み立てました。これは日本ではたびたび行われることで、家が組み立て式になっていますから、大きくはあるけれどもこれを取り壊してどこへでも運び、それを再び極めて容易に組み立てます。わずかの間に一つの修道院が出来上がり、小さいけれども都合よく、すべて事務室・寝室・中庭があり、その中庭で修道院と同じように祈りの行列が行われました」。MORALES, El principio, fol.89v.

 

また教会の内装については、アントニオ村山当安一族の多大の援助があった。息子のアンドレース・トクアンは、「教会にぜひご聖体を置いていただきたい。なぜなら長崎には数多の教会があるけれども、そのうちのひとつ(イエス会の教会)を除いてはご聖体がないし」(MORALES, De Andres Toquan...)といって、聖体の安置に必要な立派な器具(聖櫃と銀製の聖体顕示器、ランプ)、そして番人を用意した。

1609年の7月

トマース・デ・スマラガ神父が、マニラでの管区会議から戻ってくる。この時、日本へ最初にドミニコ会士を派遣したロザリオ管区前管区長ファン・デ・サント・トマース・オルマーサ神父(1614年3月離日)およびアントニオ・デ・サン・ビンセンテ修道士(1612年離日)が同行し、宣教に励んだ。スマラガ神父は、佐嘉で数ヶ月布教した後、ホセ・デ・サン・ハシント神父と共に京都へ行く。

1610年

伊達政宗が、江戸屋敷でフランシスコ会士ルイス・ソテロと会見。

1610年1月7日

ポルトガル船マードレ・デ・デウス号事件(有馬)。徳川将軍はキリシタンに悪感情を抱く。

1610年1月25日 聖パウロの回心の日

サルバネス神父は、京都にロザリオの聖母修道院・教会を造り、マニラから戻ってきたスマラガ神父と共に教徒に滞在する。京都には既にイエス会士やフランシスコ会士がいて、キリスト教は盛んであった。サルバネス神父は、管区長のバルタザール・フォルトに書簡を送り、伏見・堺・大阪での教会建設のための人材を資金を要求している。

1610年春

モラーレス神父、長崎のサント・ドミンゴ・ロザリオ聖母修道院院長、前ロザリオ管区長オルマーサ神父とアントニオ・デ・ラ・マードレ・デ・ディオース・サムーディオ修道士が長崎勤務となる。また1611年には、バルタサール・フォルト神父、ハシント・オルファネル神父、ロレンソ・デ・ポーラス神父、ドミンゴ・デ・バルデラーマ神父も長崎勤務となる。

1610年7月6日

サルバネス神父は、大坂にサント・ドミンゴ教会を造る。また彼は、伏見にも教会を建設しようとしていた。次のような報告が残っている。

「それから数年のち、伏見に他の教会を造ろうとしましたが、わたしたちの貧しさと既に始まっている迫害のために、それを建設するに至りませんでした。しかしキリシタンの集まる家を教会として使いました」。JOSE DE S.JACINTO, Al P.Provincial; fol.329 (A.P.MSS.T.19).

大坂には豊臣秀吉の遺児、豊臣秀頼がいた。また、ホセ・デ・サン・ハシント・サルバネス神父は、京都と大坂に教会を建てた後、徳川家康を駿府に訪ね、将軍徳川秀忠に江戸で会見。江戸では偶然に仙台の大名伊達政宗を面識を得て、一緒に来るなら領内に教会用の敷地を与え布教を許すと言われた。その辺の事情についてハシント・オルファネル神父自筆の『日本キリシタン教会史』は、次のように述べている。

政宗は彼に好意を示し、彼あるいは同じ修道会の人びとが、その時でもまた別のときでも、もし希望するならば、政宗の領内に教会のための土地を与えようと約束した」。「しかし今日まで修道士が足りないために、その地に行っていない。都にいた修道士はそこで神の奉仕のために大きな働きをした」。ORFANEL, Historia, c.VI et VI al final.

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