1611年〜1615年

1611年

佐嘉にいたファン・デ・サン・ハシント修道士は、マニラに召喚されて、日本を去った。

1611年7月10日

メキシコ副王の使節セバスティアン・ビスカイノが、前年のフィリピン前総督ドン・ロドリーゴ・ビベロ・デ・ベラスコの遭難救出に感謝するために、また、フランシスコ会士アロンソ・ムニョースに託された外交文書への回答を携えて、浦川に来日。宣教師の厚遇の約束と、海難事故防止のための日本の港湾調査の許可を取り付ける。ただし、メキシコ副王宛ての返書では「今後も二国間の友好・貿易は続き、毎年船が往来するであろう。・・・ 貴国の宗教は日本の宗教と非常に異なる。我が国では貴国の宗教を敬っていない」となっている。

1612年4月22日

徳川秀忠は天領(江戸幕府の直轄地)内でのキリスト教禁止令を出し、直属の家臣(旗本・御家人)のキリシタン信仰を禁止した。また京都の諸教会の破壊を命じた。残ったのは、フランシスコ会の教会1つ(伏見)。ドミニコ会の教会1つ(京都)。イエス会の教会2つ(京都)であった。このドミニコ会の教会は、町の有力者(仏教徒)が教会ではないという偽りの署名をしてくれたおかげで、破壊を免れたらしい。イエス会は、幕府の役人に賄賂を贈ってこの難を逃れたらしい。この禁教令の原因は、九州のキリシタン大名同志の内紛や、キリシタン大名と幕府の役人との政治的対立、信教国のオランダの教唆にある。しかし結局ドミニコ会は、京都の情勢が悪化して長崎に撤退

1613年

徳川秀忠は、前年に出した禁教令を全国に拡大。フランシスコ会士ルイス・ソテーロが江戸浅草に建築中の教会が、将軍によって発見され、そこで働いていた36名の人が斬首された。しかしソテーロは、伊達政宗の取り成しで助命された。

1613年8月末

佐嘉(佐賀)の大名鍋島勝茂が、将軍との謁見後、その父親鍋島直茂に書状を送り、領内からの神父の追放を命じる。

1613年9月23日

上記の追放令が施行される。神父たちは、柄崎(現在の武雄市)に新たな教会を建設するところであった。神父たちは浜町の教会に集まり長崎への退去の準備をした。また信者たちに迫害に備える準備をさせ、信仰を維持するための組織を作った。アロンソ・デ・メーナ神父はその時のことについて、こう述べている。

またそれとともに、神父たちはもっとも信心深い人々を長とし、男女それぞれの幾つかの組を作った。・・・それは何軒かの家に祈祷所を残しておいてときどき集まって祈り、あるいは信心の本を読んで説教の替わりとするためである。また同時に断食や苦行の規則を彼らに課し、平和と愛の精神を教え、最後に、いかなる方法でもよいから棄教する前に神のために役立つように死ぬべきことを教えた。キリシタンたちはみな喜んでこれらの教えを受け入れたが、これは彼らのために非常に有益であった」。MENA,o.p.(Fr.Alonso de Mena), Breve relacion de algunas cosas, 1614, fol.112v. 113.

 

1613年10月8日 ロザリオの祝日

佐賀にいた神父たちは、長崎に向かって船出した。

追放された神父:アロンソ・デ・メーナ神父、ハシント・オルファネル神父、ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父。しかし最後のルエダ神父は、日本の着物を着て変装し、しばらく佐嘉に留まった。変装した日本で最初の外国人神父らしい。

1614年1月31日

徳川秀忠は、全国的な大迫害を実施し、キリシタン国外追放令を出す。日本にいたドミニコ会宣教師は、長崎に集合しなければならなかった。同年1月末、佐嘉と浜町に激しい迫害が起こった。

※徳川家康・秀忠に強い影響を与えたのは、長崎代官長谷川左兵衛(元キリシタン)、英国人ウイリアム・アダムス(三浦按針・家康の外交顧問)、僧侶崇伝と天海(家康の政治顧問)

※しかし、徳川家によるキリスト教迫害の理由は、キリスト教が日本の伝統的な宗教や社会の仕組みに反する邪教だからではなく、豊臣秀吉の遺児秀頼が、征夷大将軍の座を狙って、徳川家を排除するのではないかという懸念のためであったらしい。豊臣秀頼の側近はキリスト教に好意的であった。

長崎に集まった神父:バルタザール・フォルト管区長代理、フランシスコ・モラーレス修道院長、オルマーサ神父、メーナ神父、スマラガ神父、ルエダ神父、ホセ・デ・サン・ハシント神父、ハシント・オルファネル神父、ロレンソ・ポーラス神父、ドミンゴ・バルデラーマ神父、ナバレーテ神父。

追放されるまでの間に(1614年11月7日追放)、今後の布教計画が話し合われ、スマラガ神父が管区長代理となり、ロレンソ・ポーラス神父、フォルト神父、バルデ・ラーマ神父は、マニラに帰ることになった。その他の神父は、追放令を逃れて日本に潜伏することにした。このときの長崎代官は、村山当安をキリシタンとして幕府に告発して罷免させた長谷川左兵衛という男であった。

1隻目:イエス会員23名を乗せてマカオ(ポルトガル領)へ。

2隻目:フランシスコ会士4名、アウグスティノ会士2名、ジュスト高山右近如安内藤とその娘ジュリア・内藤その他の有力キリシタンを乗せてマニラへ。

3隻目:村山当安が手配した潜伏用の偽装船。それには、日本人教区司祭4名(息子のフランシスコ村山を含む)、3人のフランシスコ会士、2名のドミニコ会士(モラーレス神父とオルファネル神父)が乗っていた。マニラ(スペイン領)に向かうと偽って、沖合いで当安の用意した別の船に乗り換えて全員日本に再潜入した。

※このとき追放を免れた神父は、日本人に変装したり、山へ逃れたり、信徒の家に隠れたり、船の中に隠れて港を転々としたりして、状況が静まるのを待っていた。

※長谷川左兵衛や県外から派遣されてくる幕府の役員などの一部の人を除いて、長崎の住民はほとんどキリシタンであったので、潜伏や逃亡はかなり簡単であった。

こうして潜伏に成功した司祭の内訳は、

イエス会士27名、フランシスコ会士6名、アウグスティノ会士1名

ドミニコ会士7名:ルエダ、ナバレーテ、モラーレス、スマラガ、オルファネル、メーナ、サルバネス

日本人教区司祭4名:スランシスコ村山、ロレンソ、ミゲール、クレメンテ、ファン

しかしこの年の迫害は、長谷川左兵衛が12月初めに江戸へ向かったことにより、幾分か収まった。他方スマラガ神父は、ホセ・デ・サン・ハシント神父と交代するために京都に上った。アロンソ・ナバレーテ神父が管区長代理に内定。

1614年末

大坂冬の陣:豊臣秀吉の建立した方広寺を再建した際、奉納された鐘銘「国家安康」「君臣豊楽」に徳川家康が言い掛かりを付けて、始まった。

1615年7月初旬

大坂夏の陣が終わる。織田信長の姪淀君と豊臣秀頼が自害。この戦乱によって、大坂の教会が焼けてしまい、ドミニコ会は九州に撤退。

1615年9月

スマラガ神父、伏見に宿泊用の小さな家を入手する(巡回教会)

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