1616年〜1620年

1616年2月

長崎を中心にして、ロザリオの信心に関する贖宥に関する誤った噂から、信徒間に争いが起こった。ドミニコ会は、ロザリオにかんする公式の教えを記した小冊子などを配布して、この誤解を解いた。信心会に対するイエス会の反対も影響しているらしい。

1616年7月

徳川家康の死。第2代将軍徳川秀忠、キリシタン迫害を強める。トマース・デ・スマラガ神父、最終的に京都を放棄し、長崎に移る。

1616年12月

幕府の役人が、大坂の役後の明石内記(明石掃部の子)というキリシタンの捜索のために長崎に来る。宣教師がいまだに国内にいて、キリシタン追放令が守られていないことが発覚して、再び宣教師の捜索が強化される。

1617年4月下旬

フランシスコ会士ペドロ・デ・ラ・アスンシオン神父が、肥前の喜々津で、大村(大名は棄教した大村純頼)の家老・リーノ朝永次郎兵衛によって逮捕される。

1617年5月1日

イエス会士ジョアン・バウチスタ・タボーラ・マチャード神父および日本人伝道士レオン田中が逮捕される。

1617年5月22日

上記2名の神父が、棄教した大村藩主の前で斬首される。

1617年5月23日夜

ドミニコ会士アロンソ・ナバレーテ神父は、上記の殉教に刺激された信徒の非難を浴びて、アウグスチヌス会士エルナンド・デ・サン・ホセ・アラヤ神父と協議。殉教を覚悟で公然と布教をすることを決意。

1617年5月29日

長与という船着き場で逮捕される。

1617年6月1日

鷹島でドミニコ会士アロンソ・ナバレーテ神父とフランシスコ会士エルナンド・デ・サン・ホセ・アラヤ神父が、イエス会の日本人伝道士レオン田中と共に、斬首される。ナバレーテ神父の遺体は、フランシスコ会士ペドロ・デ・ラ・アスンシオン神父の棺に収められ、エルナンド・デ・サン・ホセ・アラヤ神父の遺体は、イエス会士ジョアン・バウチスタ・タボーラ・マチャード神父の棺に収められ、伝道士レオン田中の遺体は俵に入れられて、いずれもみな石の重りを付けて海に沈められた。6月12日にスマラガ神父とルエダ神父が、ナバレーテ神父たちの殉教の場所に行き、ミサを捧げる。

1617年7月23日

スマラガ神父が6人の日本人と共に逮捕され、鈴田の牢に入れられたが、長崎代官長谷川左兵衛?が不在であることも手伝って、獄吏の黙認のもと、獄内から自由に使徒活動ができた。しかし10月半ばに左兵衛が帰ってくると、囚人の扱いは過酷になった。

1617年10月1日

先に殉教したナバレーテ神父とアラヤ神父を何年間も匿ったという理由で、ロザリオの組の会員ガスパール上田彦次郎とアンドレース吉田が斬首された。

1617年末

長崎代官末次平蔵(キリシタン)が長崎奉行長谷川権六と共謀して、将軍の財産の不正管理を理由として長崎代官アントニオ村山当安を幕府に訴えた。

1618年2月7日

アントニオ村山当安は罷免されたが、不服の申し立てを幕府にした。しかし今度は末次平蔵に、宣教師を匿ったキリシタンとして告発され、長崎と追放されてしまった。

1618年2月〜3月

ファン・デ・ルエダ神父が、天草地方で大きな働きをして、多数の棄教者を信仰に立ち帰らせた。

1618年8月13/18日

ドミニコ会の組織した朝鮮布教団がマニラから長崎に到着。かれらは、朝鮮へ向かうファン・バウチスタ・カーノ神父、ファン・デ・サント・ドミンゴ・マルティーネス神父、ディエゴ・デ・リバベリョーサ神父、および日本へ向かうアンジェロ・フェレール・オルスッチ神父であった。しかし日本人保証人の一人が、朝鮮での布教資金の保証を取り止めたので、朝鮮布教計画はつぶれた。そこでカーノ神父とリバベリョーサ神父はマニラに帰り、マルティーネス神父とオルスッチ神父が、モラーレス神父の懇請で日本に残った。

福者ファン・マツチネス・デ・サント・ドミンゴ神父(1577年―1619年)

1577年頃スペインに生まれ、若くしてサラマンカ大学に学ぶ。1594年12月24日誓願宣立。1601年スペインを出て、メキシコ経由で、翌年の1602年4月30日にマニラに着く。1614年中国語の勉強を始める。1618年8月13日朝鮮半島の布教に行くつもりで長崎に到着。朝鮮行きを中止して、朝鮮人コスメ竹屋の指導の下に日本語を学ぶ。1618年12月13日の真夜中に逮捕される。大村の鈴田牢に入獄。しかし不衛生な獄内環境によって処刑を待たずに1619年3月19日帰天。

福者アンヘレス・フェレル・オルスッチ神父(1575年―1622年)

1575年5月8日イタリアのトスカーナ地方のルッカで貴族の家に生まれる。1586年当地のサン・ロマン修道院に入院。1597年司祭に叙階され、ローマで勉学を続ける。1602年4月30日マニラに到着。1612年メキシコに赴任。1615年再びマニラ。1618年8月13日長崎上陸。朝鮮人のコスメ竹屋のもとで日本語を習う。しかし日本語の学習にはファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父が手伝った。1618年12月13日ドミンゴ神父と共に捕らえられ、鈴田牢に送られる。獄内では同郷のイエス会士カルロス・スピノラ神父と出会い励まし合った。獄内から多数の手紙を書き、マニラに報告書を書き送っている。1622年9月10日火炙りの刑。

1618年11月

長崎代官末次平蔵と長崎奉行長谷川権六は、村山当安の件を片づけて、宣教師の撲滅に成功しなければ磔に処すという命を将軍から受けながら、長崎に戻る。

1618年12月13日

コスメ竹屋の家で日本語を学んでいたファン・デ・サント・ドミンゴ神父、アンヘレス・フェレス・オルスッチ神父が、彼らの伝道士(後の修学修士トマース・デル・ロサリオ)と料理人ファン(後の助修士ドミンゴ・デル・ロサリオ)と共に捕らえられ、鈴田牢に入れられた。そこにはイエス会士カルロス・スピノラ神父およびアンブロシオ・エルナンデス修士もいた。

1619年3月14日

ジョアン鎖の背徳的な裏切りによって、ジョアン・ショーウエモン・ショーザエモンの家で食事をしていたアロンソ・デ・メーナ神父が捕らえられる。

1619年3月15日

メーナ神父の下僕の自白(当然、拷問による自白)をもとに、アンドレース村山徳安の屋敷にいたフランシスコ・モラーラレス神父が、トクアンと共に逮捕された。

※長崎では、ルエダ神父、ホセ・デ・サン・ハシント神父、オルファネール神父、コリャード神父がまだ活動していた。

1619年3月19日

鈴田牢のファン・デ・サント・ドミンゴ神父が病死。

1619年3月27日

トクアンは長崎市内の一軒家に監禁。モラーレスとメーナの両神父は、壱岐島の牢に移送される。

※長崎奉行は、神父の責任を取りたくなかった。なお、神父たちは壱岐島で比較的自由に行動した。

1619年7月

ドミニコ会士ディエゴ・コリャード神父が来日。日本語が堪能な優れた宣教師であった。彼は、会の任務を果たすために162211月離日

1619年8月9日

日本人司祭トマース荒木神父が鈴田の牢に入る。

1619年8月10日

モラーレスとメーナの両神父が、鈴田牢に移送される。

1619年9月頃

長崎奉行長谷川権六は宣教師の処分問題で江戸に出向している間、ポルトガル人やスペイン人が牢内の宣教師を援助することを一時的に許す。

1619年11月18日

モラーレス神父の宿主村山トクアン、オルスッチ神父とドミンゴ神父の宿主コスメ竹屋、メーナ神父の宿主ジョアン・ショーウンらの、宿主が火炙りとなる。神父は無事。

1619年11月27日

連帯責任によって町の住民11名が斬首される。

1619年12月1日

徳川秀忠は、村山当安を江戸で斬首される。1622年9月10日までに当安の親類縁者がほとんど処刑される。

1620年1月

キリスト教関係の施設の取り壊しが始まる。

1620年3月

ルエダ神父が病気のため、日本宣教地区の会計係という資格で、マニラへ帰る。

1620年8月4日

オランダ船が、アウグスティヌス会士ペドロ・デ・スニガ神父とドミニコ会士ルイス・フローレス神父を長崎に連行してきた。神父たちは、ホアキン・ディアース平山という日本人の持ち船で6月4日にマニラを出たが、7月22日にイギリスの海賊の手に落ち、オランダ人に引き渡された。オランダ人は宣教師たちを賞金目当てで連れてきたのである。長崎では、アウグスティヌス会士バルトロメ・グティエレス神父による救出計画、ドミニコ会士ホセ・デ・サン・ハシント神父による救出計画、グティエレス神父の依頼を受けた俗人のスペイン人アルバロ・ムニョースによる救出計画、オランダ人フランシスコ会士リカルド・デ・サンタ・アナ神父による救出計画があったが、いずれも失敗した。

※しかし幕府の厳しい迫害にもかかわらず、宣教師はキリシタン市民の協力で行動することができた。ハシント・オルファネル神父は次のように書いている。

「この御降誕の祝日(1620年)以後、長崎市内外において司祭探索のために多大の努力がなされている。それにもかかわらず、神の御恵みにより市の大多数の人々は善良で、いかに迫害が過酷であっても、注意深く宣教師を探し出して自分の家へ連れて行き、告解をさせるために人々を密かに家へ入れる。穴に隠れならないような特別に厳しい探索の行われる日でなければ、宣教師は普段非常に忙しい。それだから述べたように、町には活気と信心が維持されている。ドミニコ会およびフランシスコ会の兄弟は特にこの仕事をよく遂行している。それは、彼らが町のキリシタン役人をことごとく味方にしていたからである。それだから夜はいつでも自由に司祭の仕事に行くことができる。役人が彼らを伴っていって、町の門が閉まった後にもこれを開くし、庄屋までが味方であって、司牧に必要な時には牢に入れてくれる」(ORFANEL, Historia..., LVII.)

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