1621年〜1625年
1621年初め
コリャード神父は、有馬で宣教し、非常に身分の高い二人のに洗礼を授けた。
1621年2月
トマース・デ・スマラガ神父と共に鈴田牢に入れられた(1617年7月23日) マンショ・デ・サント・トマースという修道名の日本人青年が、この年の2月修道誓願を立て日本人として初めてドミニコ会士として受け入れられた。この年の春、アンヘレス・フェレル・オルスッチ神父およびファン・マルチネス・デ・サント・ドミンゴ神父と共に同じ牢に入れられた(1618年12月13日)日本人青年も修道誓願を立てドミンゴ・デル・ロザリオと名のった。
1621年2月
コリャード神父とオルファネル神父が、古賀(有馬)で出会う。オルファネル神父は、古賀で、貴重な書物『日本教会史』を執筆し、完成していた。
1621年2月14日
コリャード神父は、オルファネル神父と別れて長崎へ出発し、3月下旬までホセ・デ・サン・ハシント神父(管区長代理)を助けていた。
1621年2月28日
オルファネル神父、キリシタンに呼ばれて大村に行く。
1621年4月20日
オルファネル神父、4月30日の新管区長代理選挙のため長崎へ出発。
1621年4月25日
オルファネル神父、長崎へ行く途中で、彼の伝道士ドミンゴ・タンバと共に、矢上というところで捕らえられた。長与を経て鈴田に送られた。
1621年4月26日
オルファネル神父の逮捕を知ったコリャード神父は、長与でオルファネル神父が鈴田へ連行されていくのを見た。コリャード神父は、長崎に急いだ。
1621年7月
管区長代理ホセ・デ・サン・ハシント神父は、大村で働くために長崎を出た。
1621年7月22日
ペドロ・デ・サンタ・カタリーナ・バスケス神父とドミンゴ・カステレット神父が長崎に到着。彼らは神父だという噂が広まっていたため、潜伏することができず、同年の10月21日まで商人として振る舞った。他方ホセ・デ・サン・ハシント神父は、彼らを迎えるために大村から長崎に戻っていた。
※福者ペドロ・デ・サンタ・カタリーナ・バスケス神父(1590―1624)
1590年モンテレイ伯爵領(現・スペイン、オレンセ県)に生まれた。マドリッドの聖マリア修道院に入り、1606年初誓願。セゴビア王立サンタ・クルス修道院で哲学を、アビラのサント・トマース修道院で神学を修め、司祭に叙階。1613年極東での宣教師募集に応募してスペインを出発。1615年4月末頃、メキシコ経由でマニラに到着。多様な使徒職に従事。ところがアルフォンソ・ナヴァレテ神父の勇敢な殉教の知らせを聞いて日本宣教を志願。1621年7月11日マニラを出帆、同月22日長崎に上陸。同年10月21日まで商人として振る舞った。「市左衛門」と名のって、1622年から宣教活動を開始し、1622年8月14日には、二本の刀を差し武士を装って長崎牢に潜入、囚われているキリシタンたちに秘跡を授ける。幕府の懸命の捜索の手を巧みに逃れて計画的に宣教活動を行う。1622年9月に日本を去るコリャード神父の後を受けて、1622年5月管区長代理に就任。カステレット神父と交代で、有馬と大村の諸地方で働いた。1623年の聖週間(4月18日―25日)、長崎で働いたが、4月27稲佐山の「淵」というところでカステレット神父と潜伏しているところを逮捕された(カステレット神父は危うく逃れた)。長崎牢に入牢。1623年6月15日大村藩の玖原牢に移送。獄中で二度激しい病に犯されたが、1624年8月25日、有名なフランシスコ会士ルイス・ソテロ神父らと共に火炙り。1867年7月7日ピオ9世によって列福された。
※福者ドミンゴ・カステレット神父(1592―1628)
1592年現在のバルセロナ県エスパラゲラで生まれた。1608年10月23日バルセロナの乙女殉教者聖カタリナ修道院に入院。1609年初誓願。同修道院で哲学をまなび、セゴヴィアのサンタ・クルス王立修道院で神学を修める。1613年スペインを出発。1615年4月末頃、メキシコ経由でマニラに到着。現地で多様な使徒職に従事。日本宣教の任務を受けて、1621年7月11日、ペドロ・バスケス神父と共にマニラを出帆。同年7月22日長崎上陸。10月21日に有馬地方に潜伏して日本語を学習。1622年3月ごろから宣教活動を開始。ディエゴ・コリャード神父、ペドロ・バスケス神父と共に大活躍をする。1622年9月初め、コリャード神父が日本を去る。この時点で日本にいたドミニコ会神父はこの3人だけであった。しかし1623年4月27日ヴァスケス神父が捕らえられ、カステレット神父が日本で働くただ一人のドミニコ会宣教師となってしまった。厳しい迫害下の長崎で宣教活動をしていたが、ついに1628年6月15日に捕らえられ、大村藩の玖原牢に入れられた。1628年9月6日長崎牢に移送。翌日の1628年9月7日西坂で火炙り。1867年7月7日ピオ9世によって列福された。
1621年8月17日
ホセ・デ・サン・ハシント神父は、伝道士アレーホ・シュンボ、宿主および近隣の人々と共に捕らえられ、ハシント神父とアレーホは鈴田牢に、その他の人々は長崎牢に入れられた。コリャード神父は、スペイン商人の服装をして彼らに面会し、手紙などの情報を交換する。同じころ、長崎市民に仏教寺院建立の義務が課せられたが、ドミニコ会はそれに荷担してはならないと説いた。ハシント神父は、獄中から同趣旨の書簡を出している。
1621年10月21日
コリャード神父は、バスケス神父とカステレット神父を有馬領に隠して、日本語の勉強を始めさせた。この頃コリャード神父が精力的に働いた長崎や有馬・大村その他の土地でコリャード神父やドミニコ会の教えの組に対して誤解や悪い噂が広まった。それは、ロザリオの組とイエスの組みの違い(免償の内容)に関するものであった。しかしキリシタンたちの和解の努力によって解決し、和解合意文書が管区長代理コリャード神父に提出された。
1621年11月30日
厳しい尋問(拷問)と有力な証拠によって、アウグスチノ会士ペドロ・デ・スニガ神父が身分を隠し切れずに、自白。スニガ神父は、獄中から、コリャード神父にルイス・フローレス神父の救出を依頼した。そのわけは、コリャード神父とフローレス神父とが共に、日本では誰もわからないフィリピンのカガヤン語で話をすることができたからである。
※福者ルイス・フローレス神父(1563年―1622年)
1563年頃ベルギーに生まれる。ヨーロッパのガンテというところで幼年教育を受け、両親と共にスペインへ、そしてメキシコへ移住した。メキシコで召命を受け、1597年ドミニコ会司祭となる。1598年5月マニラに到着。1620年ドミニコ会士の日本での殉教に奮い立ち、ホアキン・ディアス平山船長の船で日本宣教に出発(6/5)。途中、イギリスの海賊に襲われ、オランダ人の手に渡るが、朱印状を持っていた平山船長は、オランダ人を告訴。他方オランダ人も、乗員に宣教師がいると訴え出た(「平山常陣事件」)。幾多の救出作戦の失敗後、1622年3月6日フローレス神父は宣教師であることを自白。友人のスニガ神父と共に、壱岐島の牢に入る。1622年8月17日長崎に護送され、二日後の8月19日、長崎の西坂で火炙りとなる。1867年7月7日、スニガ神父と共に、ピオ9世によって列福された。
1622年1月
平戸の牢にいるのルイス・フローレス神父の最初の救出計画が失敗。
1622年3月4日
ルイス弥吉(30歳)が幾つかの条件(失敗したらフローレス神父は身分を明かすことなどの条件)を付けて救出計画を引き受け、自分の船に乗せることに成功したが、逃亡の途中に捕らえられてしまった。フローレス神父とスニガ神父は壱岐島の牢に移された。
1622年3月5日
ルイス・フローレス神父は、ついに身分を告白。
1622年春
アンヘレス・フェレル・オルスッチ神父およびファン・マルチネス・デ・サント・ドミンゴ神父と共に鈴田牢に入れられた(1618年12月13日)日本人青年伝道士が修道誓願を立てトマース・デル・ロザリオと名のった。
※福者マンショ・デ・サント・トマース修学修士(1600―1622)
1600年肥後(熊本)に生まれる。1617年6月初め頃からトマース・デ・スマラガ神父の伝道士として大村地方で働き、1617年7月23日スマラガ神父と共に鈴田牢に入れられた。1621年2月鈴田牢内で日本人として初めてドミニコ会の誓願を立てた。管区長代理ディエゴ・コリャード神父は次のように書き残している。
「最初に修道服が与えられたのはマンショであって、聖ドミニコ修道会に属するものとなり、マンショ・デ・サント・トマースと呼ばれた。牢内でラテン語を勉強し、トマース・デ・スマラガ神父の協力者として説教者かつ伝道士としての能力が備わっていたので、宣教師たちは彼に司祭への道を準備させた。」
1622年9月12日大村で火炙りとなる。1867年7月7日ピオ9世により列福。
※福者トマース・デル・ロザリオ修学修士(1602―1622)
幼いときに両親をなくし、長崎でドミニコ会宣教師によって孤児として育てられた。トマース・デ・スマラガ神父やアルフォンソ・ナヴァレテ神父、モラレス神父に仕え。最後に1618年に来日したアンヘレス・フェレル・オルスッチ神父とファン・マルチネス・デ・サント・ドミンゴ神父を助け、後者二人の神父と共に1618年12月13日の夜逮捕された。聖職志願者修練士として受け入れられ、1622年春初誓願を立てる。1622年9月10日長崎の西坂で斬首。コリャード神父は、「彼が牢内で学んだラテン語は流暢なものであった」と記している。1867年7月7日ピオ9世によって列福される。
※福者ドミンゴ・デル・ロザリオ永田孫七郎助修士(1601―1622)
1601年頃、大村に生まれる。日本名はファン永田孫七郎。ドミニコ会の従者「小者」として働いた。アルフォンソ・ナバレテ神父を最後まで助け(1617年5月31日殉教)、管区長代理フランシスコ・モラレレス神父の命令で、アンヘレス・オルスッチ神父とファン・マルチネス・デ・サント・ドミンゴ神父の世話をしたが、後者二人の神父と共に1618年12月13日の夜逮捕された。鈴田牢に入れられ、1621年春ドミニコ会修道士ドミンゴ・デル・ロザリオとして受け入れられ、1622年初誓願。1622年9月10日長崎の西坂で斬首。1867年7月7日ピオ9世によって列福される。
1622年3月5日
長崎奉行長谷川権六は、ホアキン平山の船で来た者全員(16名)に対する死刑の宣告を江戸からもたらし、身元引受人の保証で釈放されて長崎にいた人々を再び投獄。1622年7月29日
長崎奉行長谷川権六は、長崎およびその周辺の地域(大村・矢上)に捕えられているキリシタン関係者全員(獄内にいる者、身元引受人に預けられている者)の処刑命じる命令を、江戸から出す。これを受けてコリャード神父は、彼らの告解を聴くために奔走した。1622年8月
パスケス神父が、変装して長崎の牢に入り、囚人の告解を聴く。しかし密告によって、バスケス神父は幕府の重要人物と見なされてしまった。
1622年8月16日から10月2日まで
フローレス神父の救出計画に失敗したルイス弥吉は、その船の中にいた(監禁?)。1622年8月17日
ホアキン平山とスニガ神父およびフローレス神父が、長崎に連行される。彼らを助け出そうとして捕らえられた5人も平戸から移送された。
1622年8月19日
ホアキン平山、スニガ神父、フローレス神父は、火炙り。その他は斬首。
※このとき、コリャード神父、バスケス神父、カステレット神父は、関係者に死の準備をさせるために奔走した。
1622年9月9日
キリシタンは捕らえられた所で処刑されることが決まった。長崎のキリシタン関係者33名、鈴田のキリシタン関係者24名、合計57名のキリシタン関係者は、長崎で。矢上のキリシタン関係者5名、大村のキリシタン関係者8名は、それぞれその地で処刑されることが決まった。1622年9月10日
上記の者たちの処刑が行われる。長崎の33名の中には、1619年11月18日に焼き殺されたアンドレース村山トクアンの妻が含まれていた。長崎と鈴田の57名中、32名は刑場に着くと直ちに斬首。残りの25名は火炙りとなる。※トマース・デル・ロサリオ修士とドミンゴ・デル・ロサリオ修士は斬首。フランシスコ・モラーレス神父、アロンソ・デ・メーナ神父、ホセ・デ・サン・ハシント・サルバネス神父、ハシント・オルファネス神父、アンジェロ・フェレール・オルスッチ神父は火炙り。
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622年9月12日大村において鈴田の牢に残っていた8名が焼き殺された。
矢上の5名も同様に処刑された。男性は火炙り。女性は斬首。※トマース・デル・エスピリト・サント・スマラガ神父およびマンシオ・デ・サント・トマース修学修士
※ハシント・オルファネスの宿主の一家5人:マティーアス・マタエモン、その妻マリーア、息子のドミンゴとミゲール、同じくマリーアという母(マタエモンの母?)
1622年10月2日
監禁中のルイス弥吉は、棄教を拒んだため、火炙り。彼の家族およびその他の人たちが斬首された。
1622年11月
コリャード神父は、これらの英雄の最期を見届けた後、管区長の厳命により管区会計係としてローマへ赴くために、マニラへ向かった。日本の残っているのは、管区長代理ドミンゴ・カステレット神父とペドロ・バスケス神父の二人だけとなった。
1623年4月19日
バスケス神父は、長崎の山中の一軒家で、カステレット神父と会っていた。そこへポルトガルの婦人イネース・コレーアがルイス・フローレス神父の遺体を安全に埋葬するために船で持ってきた。ことろが埋葬中の彼らを、たまたま竹を取りに来た奉行の二人の役人が発見し、銃を取りに戻ってその場に駆けつけバスケス神父を捕らえた。カステレット神父は辛うじて山の上に逃れた。イネース婦人は役人の買収に成功したが、バスケス神父は、神のみ旨に反することとして釈放を固辞。彼は長崎奉行所に、そこからさらにクルス町の牢に送られた。
1623年6月15日
バスケス神父はクルスの牢から、大村藩の玖原牢に移送された。その途中、カステレット神父と接触した。
1623年6月19日
マニラの管区本部の決定によって派遣されたディエゴ・デ・リベーラ神父(途中で死亡)、ドミンゴ・デ・エルキシア神父、ルカス・デル・エスピリツ・サント神父、ルイス・ベルトラン・エクサルチ神父(聖ルイス・デ・ベルトランの親戚)が鹿児島に到着。
1623年10月14日
ドミンゴ・デ・エルキシア神父、ルカス・デル・エスピリツ・サント神父、ルイス・ベルトラン・エクサルチ神父が、幾つかの事件の後10月14日に長崎に到着。しかし直前に出されたスペイン人退去命令(1624年幕府はスペイン船の来航を禁止した)によって、マカオのポルトガル船に乗船したが、カステレット神父は、キリシタンの船乗りと共に沖合いで彼ら3人を迎え、退去前にいた同じ村(長与の近くの大草村)で日本語を学ぶようにさせた。彼らは数ヶ月後に未完成の日本語で宣教に奔走しなければならなかった。
※福者ルイス・ベルトラン・エクサルチ神父(1596―1627)
1596年バルセロナ伯爵領の古都に生まれる。1611年バルセロナの乙女殉教者聖カタリナ修道院に入院。自分の父方の親戚に当たる聖ルイス・ベルトランに肖って、同じ名前に改名。1612年初誓願。そこで哲学を終了。次いでアリカンテ・オリウエラにある総大司教区の学院に神学を学び、司祭に叙階される。1617年7月スペインを出発。1618年6月メキシコ経由でマニラに到着。1623年5月23日管区会議の決定に基づいて、ドミンゴ・デ・エルキシア神父、ルカス・デル・エスピリツ・サント神父と共にマニラを出発。1623年6月19日鹿児島、10月14日長崎。次いで国外退去。再潜伏。1624年四旬節から、大村地方を中心に使徒職に従事。人々から慕われた。やがてドミニコ会の霊性を広めようと聖ドミニコ信徒会を組織し、大村のマリナのような優れた聖人を出すことになった(1634年11月11日殉教、1987年10月18日列聖)。彼は、役人の厳しい監視の目を逃れるために、ハンセン氏病を患う3人の婦人の家に隠れ家としていた。しかし遂に1626年7月29日この隠れ家で、これらの3名の婦人と、2名の日本人協力者と共に捕らえられた。1627年7月29日彼ら全員が大村藩の放虎原で火炙りにされた。ルイス・ベルトラン神父とドミニコ会の着衣を認められた2名の日本人協力者は、1867年7月7日ピオ9世によって列福された。
※聖ドミンゴ・イバニェス・デ・エルキシア神父(1598―1633)
1589年2月初め、スペインのギプスコア地方に生まれた。1605年サン・セバスチャンにあるサン・テルモ修道院に入院。1606年初誓願。フィリピン・中国・日本での宣教師を募ったディエゴ・アデワルド神父の熱烈な呼び掛けに応えて、スペインを出発。1611年5月メキシコ・アカプルコ経由でマニラに到着。この船には、日本で殉教することになるアルフォンソ・ナバレテ神父を団長とする31名のドミニコ会士がいた。同年、司祭叙階。なお、この年に聖トマス学院・大学が開設された。1622年末、日本に立った2名しかいないドミニコ会士ペドロ・バスケス神父とドミンゴ・カステレット神父の切実な内容の手紙に動かされたロザリオ管区は、管区の中で最も優秀なエルキシア神父、ディエゴ・リヴェラ神父、ルカス・デ・エスピリツ・サント神父、ルイス・ベルトラン神父の派遣を決定(1623年5月23日)。彼らは、フランシスコ会士4名、アウグスティヌス会士2名と共に、直ちにマニラを出向したが、途中、中国沿岸でディエゴ・リヴェラ神父が死亡。1623年6月19日薩摩領の海岸に上陸。1623年10月14日長崎到着。同年、徳川秀忠はスペイン人の日本滞在を禁止し、スペインとの外交関係を全面的に断絶する命令を出していたので、命令通り一先ず長崎を離れ、カツテレット神父の手引きで再び入国。こうして10年間に及ぶ使徒職活動が始まった。昼間は、隠れ家や洞窟、墓場、藁束の中に潜み、夜間に活動した。幾人もの宣教師が捕らえられ殉教していくのを目撃した。ついに捕らえられたあるキリシタンが神父の居所を拷問によって自白。エルキシア神父は忠実な伝道師・フランシスコ正右衛門(彼も聖人)と共に逮捕され、大村牢に、それから長崎牢に入れられた。正右衛門と共に、1633年8月13日、穴吊り。エルキシア神父は、30時間後の翌日の8月14日に死亡。
※聖ルカス・デル・エスピリツ・サント神父(1594―1633)
1594年10月18日スペインのサラモサ地方に生まれた。1610年サラモ地方のサント・ドミンゴ修道院に入院。先ず、レオン地方で修学、次いでヴァリャドリードのサン・グレゴリオ学院で研鑚。1617年4月25日サン・グレゴリオ学院を出発。1671年7月末セヴィリャ港を出帆。メキシコに到着して数ヶ月後に司祭に叙階される。26名の宣教団の一員としてマニラに向かう。1623年サント・トマス大学で文学を教授。1623年3月半ば、日本に立った2名しかいないドミニコ会士ペドロ・バスケス神父とドミンゴ・カステレット神父の切実な内容の手紙が、マニラのサント・ドミンゴ修道院で朗読された。1623年6月日本に到着。ルイス・ベルトラン神父と共に小さな村に潜伏して日本語を習得し始めた。折りからのスペイン人国外退去令を受けて一旦日本を離れるが、エルキシア神父とともに再び潜入。10年間の夜陰に乗じた宣教活動が開始された。1627年にはルイス・ベルトラン神父が殉教して、日本にはルカス神父とエルキシア神父の二人しかいなかった。神父の捜索は厳しさを増し、ルカス神父は、山の茂みに隠れながら大根の葉を食べて40日を過ごしたこともあった。にもかからわず、ルカス神父はマニラに手紙を書き送っている。1633年2月から6ヵ月に及ぶ宣教旅行に就き、山陰、北陸、奥州の諸国を巡り歩いて宣教。京都に戻って(1633年8月15日)、マテオ小兵衛修道士(聖人)やイエス会士スーサ神父と一緒に働いた。しかし役員たちにキリシタン殺害を止めさせるために自分たちの居所を知らせようと、1633年9月8日淀川に浮かべた小船の上で待機。やがて役人たちが彼らを逮捕した。このとき忠実な伝道士ドミンゴ格助も捕らえられた。(大坂?)の牢内ではルカス神父とスーサ神父、そして既に獄中にあった2名のフランシスコ会士たちは聖歌を歌い、お互いの足を洗いあった。当地で水責めの拷問。やがて神戸から小倉まで船で、そこから長崎まで徒歩で移動させられた。背中には「ごく悪人である」との罪状書きの札が下げられた。彼は長崎の牢から最後の手紙を書き送り、そのなかで、すべての人々に「神の憐れみに信頼しつつ、私の悪い模範の故に」許しを乞うている。1633年10月18日穴吊り。1633年10月19日死亡。
※聖マテオ・デル・ロザリオ小衛兵助修士(1615―1633)
1615年九州の有馬に生まれる。ルカス神父を助け、苦楽を共にする。ルカス神父に認められ、助修士となった。1633年8月15日に京都に戻ったルカス神父と再会し、9月8日大坂の淀川に浮かべた船の上で役人に捕らえられた。大坂町奉行に連行され、神戸から船で小倉へ、小倉から長崎まで徒歩で移動し、1633年10月18日穴吊りの刑を受け、翌日息を引き取った。遺体は灰にされ、海に投げ捨てられた。
※ドミンゴ格助(?―1633年)信徒または伝道師
長崎地方の出身で、長い間ドミニコ会宣教師たちの下男として働いていたが、ドミニコ会員ではなかったようである。1633年のルカス・デル・エスピリト・サント神父の東北行脚に同行。1633年9月8日淀川上の船中で、ルカス神父、イエス会士アントニオ・デ・スーサ神父、マテオ小兵衛修道士と共に捕らえられ、大坂奉行で拷問を受ける。1633年9月24日長崎へ向かって出発し、1633年10月18日穴吊り。たぶん翌日に死亡。残念なことに、彼は1987年のヨハネ・パウロ二世による列聖者名簿には加えられなかった(かれには文献上不明な点が多過ぎた)。
1624年8月25日
バスケス神父が、大村近くの放虎原で、イエス会士やフランシスコ会士と共に焼き殺される。
1624年末
ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父(『ロザリヨの記録』の著者)が、琉球の粟国島で不入森を踏み荒したかどで海に投げ捨てられて、死亡。
1625年
比較的迫害の平穏な年であった。
1625年10月
エルキシア神父が京都方面の宣教活動に派遣される。
1625年12月23日
長崎奉行所は、キリシタンの取り締まりで効果を上げていないという理由で、奉行長谷川権六が水野河内守に交代させられたのを期に(代官末次平蔵は留任した)、キリシタン迫害を激化させ、キリシタンの公職追放・長崎市内からの追放を行った。このときルカス・デル・エスピリト・サント神父は、山中に逃れ、「四十日の間、山の奥でただ湯で煮た大根の葉しか食べなかった」と言われている。ベルトラン神父は、数ヶ月後に大村へ戻ったが、宿主となってくれる人がいず、癩病者の小屋に潜まなければならなかった。