1626年〜1630年
1626年春
長崎にいたエルキシア神父は、院長のカステリェトの許可を得て、フランシスコ会士ディエゴ・デ・サン・フランシスコ神父と共に、東北宣教に出かける。このディエゴ・デ・サン・フランシスコ神父は、1626年4月8日七ツ釜の港から三人の神父を連れて奥州へ発ったことが明らかになっている。一行は最上の酒田で船を下り、陸路を30レグア辿って7月初旬に奥州に着いた。冬の東北地方の仕事は苦労に満ちたものであったが、実りは大きかった。隠修士会士フランシスコ・テレーロによる1627年3月26日付け書簡によると、四人の宣教師が約六千人に洗礼を授けたとされている。エルキシア神父は、東北地方に2年間留まった。
1626年7月22日
ベルトラン神父が、一キリシタンの裏切りによって、マンシオ(老人)とペドロ(16歳)と共に捕らえられた。ベルトラン神父は、牢内でこれ二人の協力者にドミニコ会の聖服を与え、マンシオ老人はマンシオ・デ・ラ・クルスという名で、ペドロ少年はペドロ・デ・サンタ・マリアという名で、助修士として受け入れられた。
※福者マンショ・デ・ラ・クルス助修士(?―1627)
生年月日や出身地は不明。1624年春からベルトラン神父が入牢するまで神父に仕えた。1626年8月26日付けの手紙には、「日本人の聖なる老人で、長い間ドミニコ会の神父たちに仕えてきた人である」と書かれている。1626年7月28日の夜、ベルトラン神父と共に、三人の癩を患う婦人の小屋で逮捕され。数日後にこの三人の婦人、マルタ、ベアトリス、ファナも逮捕された。老人は、獄内で入会を志願。ベルトラン神父は彼の功績を認め、助修士として受け入れた。マンショ・デ・ラ・クルスと改名。老人が「十字架の」という名を選らんだのは、彼の見た「二本の十字架」の夢にちなんだものであった。この二本の十字架は、ベルトラン神父とスランシスコ会宣教師スランシスコ・デ・サンタ・マリア神父の殉教を予言するものであった。入牢してから約一年後、1627年7月29日に初誓願を立て、数時間後に火炙り。1867年7月7日列福された。
※福者ペドロ・デ・サンタ・マリア助修士(1610―1627)
1610年頃生まれた。彼が13歳のとき、親戚の者たちが彼を将来伝道士としてくれるようにと、ベルトラン神父に委ねた。以後彼はベルトラン神父のために働き続け、連絡係やカテキスタとして奔走した。ベルトラン神父は、1626年8月22日付の書簡で、「この少年は16歳で、まるで天使のごとく信心深い」と書いている。1626年7月28日の夜、三人の婦人の癩患者の粗末な小屋でベルトラン神父と潜んでいるところを役人に捕らえられた。翌日の7月29日大村藩の奉行の前に引き出され、玖原のキリシタン牢に入れられた。マンシオ老人と共に助修士として入会を認められ、ペドロ・デ・サンタ・マリアと名乗った。1627年7月29日の朝死刑の宣告が下され、彼らは初誓願。数時間後に放虎原刑場で火炙りとなった。1867年7月7日、ピオ9世によって列福された。
1627年
台湾から日本へ行く途中、フィリピンのカガヤンで、ルイス・デ・サント・トマース神父が死亡した。
1627年春頃
ドミンゴ・デ・エルキシア神父は、長崎で働くことができないので、日本の北部へ行って、フランシスコ会、イエズス会の人たちと一緒に布教活動を行った。
1627年7月29日
ベルトラン神父、マンシオ修士、ペドロ修士らが焼き殺された。
1628年6月15日
管区長代理ドミンゴ・カステレット神父が、その隠れ家で役人に急襲され、捕らえられた。長崎牢に入牢。一ヶ月後に大村牢。この大村牢内でカステレット神父は、彼の協力者トマース・デ・サン・ハシント修士(30歳)とアントニオ・デ・サント・ドミンゴ修士(20歳)をドミニコ会員として受け入れた。
1628年9月8日
カステレット神父、トマス・デ・サン・ハシント修士、アントニオ・デ・サント・ドミンゴ修士らは、長崎で火炙りとなった。
※福者トマス・デ・サン・ハシント助修士(1598―1628)
1598年に生まれたが、出生地は不明。1622年以来カステレット神父と行動を共にする。1627年夏の初め頃もう一人の伝道士アントニオと共に助修士志願の修練士として受け入れられ、トマス・デ・サン・ハシントと名乗る。長崎代官水野河内守とその同僚末次平蔵のキリシタン弾圧によって、アントニオと共に1627年7月捕らえられ、大村牢に入牢。1628年6月15日カステレット神父も捕らえられて大村牢で再会。やがて長崎牢にカステレット神父と共に移され、1628年9月7日そこで初誓願を宣立。翌日の9月8日(聖母マリアの誕生の祝日)に西坂で火炙り。1867年7月7日列福。
※福者アントニオ・デ・サント・ドミンゴ助修士(1608―1628)
1608年長崎に生まれ、両親からアントニオの霊名を頂く。青年になってからドミニコ会宣教師たちの協力者となり、伝道士として働く。カステレット神父の許で、助修士志願の修練士として受け入れられたが、1627年7月、同僚のトマス修練士と共に捕らえられ、大村牢に入牢。1628年に捕らえられたカステレット神父と大村牢で再会。殉教の前日1628年9月7日、初誓願を宣立。翌日の9月8日に西坂で火炙り。1868年7月7日列福。
1629年5月5日
1629年5月5日のマニラでの管区選挙議会でエルキシア神父が管区長代理に任命されたという書状が、長崎にもたらされた。日本の北部で働いていたエルキシア神父は、ルカス・デル・エスピリト・サント神父と北部での宣教を交代するため、連絡基地として京都に一件の家を借り、長崎へと下った。ルカス・デル・エスピリト・サント神父は、この年、異教徒の家や迫害者であるはずの人々の支援ほとんど公に受けながら、日本の北の果て(津軽・北海道の南端の松前)など、フィリピンからの宣教師がかつて足を踏み入れなかったところまで行き、至る所で「ロザリオの組」を組織した(1630年付けの京都発の書簡)。また、北部で働いていた日本人ドミニコ会士トマス・デ・サン・ハシント西ヒョージ神父(西六左衛門)と出会ったりもした。Lucas del Espiritu Santo,o.p.,Cartas28-9-1930; Archivo Provincial de la Provincia del Santo Rosario, Manila, MSS,T.19,f.358;f.360v.
1629年7月末
竹中釆女が長崎奉行水野河内と交代すると、迫害は残酷さを増した。長崎およびその周辺を封鎖し、中心的なキリシタンを島原雲仙の硫黄の熱湯へと送り込んだ。家の破壊や山狩りなども行った。エルキシア神父は、彼の宿主と共に難を避けるために、船中へ逃れ、山中の藁を積み上げた所に身を隠した。
1629年11月10日
日本人ドミニコ会士聖トマス・デ・サン・ハシント西六左衛門神父が来日。
※聖トマス・デ・サン・ハシント西六左衛門神父(1590―1634)
1590年平戸に生まれる。父は寵手田領の代官を務めていたガスパル西内記(隠居して玄可と称した)。母は、ウルスラと呼ばれた。西六左衛門が10歳のとき、両親は殉教。1602年12歳になったとき、キリスト教の伝道士になるために長崎にあるイエズス会の学院に入学。やがてそこを卒業し、長年伝道士として宣教師たちを助ける。1614年11月7日折りからのキリシタン追放令によって、マカオに追放される。1620年彼が30歳になったときマニラに移り、サント・ドミンゴ修道院に入院。当地のトマス学院で著名なドミンゴ・ゴンザレス神父、フランシスコ・デ・パウラ神父の指導下に哲学と神学の勉強を始める。1622年ドミニコ会の会服を着衣。天使的博士に対する憧憬とポーランドの宣教師聖ハシントの精神に倣って、トマス・デ・サン・ハシントと名乗る。やがて初誓願を宣立し、司祭に叙階(1625年12月22日マニラ大司教から下級聖品四段と副助祭の叙階を受けたが、助祭と司祭の叙階を受けた記録は太平洋戦争中に紛失)。1626年から1629年まで台湾で宣教。その間、日本帰国の好機が訪れるのを待った。1629年石垣島に立ち寄り、「ロザリオの記録」の編集者ファン・デ・ロス・アンヘレレス・ルエダ神父の殉教の消息を得る。1629年11月10日日本上陸。トマス西神父は、マニラと台湾に宛てて、二通の手紙を書き送り、ドミンゴ・デ・エルキシア神父やその同僚たちの殉教について報告している。やがてホルダン・デ・サン・エステバン神父が重病になったという風聞を聴き、困難の末神父を探し当て、看病している内に、密告され逮捕。長崎奉行に引き立てられる。1634年11月11日水責め。次に、指に竹串を差し込まれる拷問。1634年11月15日、ホルダン神父に別れを告げながら、穴吊りで殉教。
1630年6月頃
エルキシア神父は、その宿主と共に長崎を脱出、他領へ逃れた。
1630年7月頃
エルキシア神父は、再び長崎に潜入。
1630年10月前後
ルカス・デル・エスピリト・サント神父は、このころ加賀の大名前田利宗の住む金沢にいた。この大名の私邸は、京都への途上にあった。ルカス神父は、10月に他の地へ発つ用意を整えたが、それを伝える書簡が紛失して詳細は伝えられていない。しかし1633年の最後の旅に関する不完全な記録と、(京都発の)1630年の書簡で日本の北端に達したと書き記していることから、ルカス神父は、本土の大部分を回り、津軽から海峡を渡って何人かの信徒が住む北海道の南部の松前(現在の福島)に行ったと推定される。このときの同行者は、日本人のトマース・デ・サン・ハシント伝道士で、教養があり日本文学に精通し、雄弁家で聞く人を喜ばせる平易な言葉を巧みに使い、効果をあげた。しかし著しい宣教の効果の故に、探索が強化された。これらの東北宣教についてルカス神父は、京都発の1630年付けのマニラの管区長宛ての書簡で、次のように語っている。
「事情が急迫してきました。出発に金を費やした私たちは非常に困窮しています。金がなければ何も出来ません。ある所に一ヶ月滞在すると、その間船乗りの生活と船を維持しなければなりません。その条件でなければ船が手に入りませんが、これは多額の費用を要します。その他一軒の家を置き管理人を養います。信徒は何も出来ない状態にありますから、まず私たちが助力してやらなければなりません。信徒はほとんどが逃亡中の身なのです」。Lucas del Espiritu Santo,o.p.,Cartas,4-3-1629, Archivo Provincial de la Provincia del Santo Rozario, Manila, MSS, T.19, f.358.
1630年10月18日
エルキシア神父は、1630年10月18日付けの書簡で以上のようにマニラの管区長宛てに報告している。またこの書簡によると、棄教者たる長崎代官・ジョアン末次平蔵(1573―1630)が、数日前に江戸で「気が狂って数多のでたらめを口走りながら」死亡した。