1631年~1635年

1632年8月12日

シシリアのジョルダン・デ・サン・エステバン(ハシント・アンサローネ)神父が長崎に到着。直ちに管区長代理エルキシア神父の所に行き(そのとき町の夜警を宿主と勘違いして抱き着くというハプニングがあった)、更にルカス・デル・エスピリト・サント神父のところに送られた(京都か?)

聖ホルダン・デ・サン・エステバン(ハシント・アンサローネ)神父(1598―1634)

1598年11月1日シシリー島のキスキナのサン・ステファノで、高貴な家柄に生まれた。1615年8月半ば、17歳でドミニコ会に入会。修練中に日本での迫害の状況を知り、日本での宣教の召し出しを感じる。長上の許可を得てスペイン・カセレス県のツルヒリッリョの修道院に移り、勉学を終え、司祭に叙階された。丁度その頃、ロザリオの聖母管区の極東での宣教師を募るために、スペイン中の修道院を巡っていたファン・デ・サン・パブロ神父に出会い、極東に行くことを決めた。1625年メキシコに出発。フィリピンに到着後、主に中国人のための司牧に当たる。語学の特別の才能を発揮して、中国語の読み書きができるようになった。やがてホルダン神父は、ドミニコ会士聖ハコボ・デ・サンタ・マリア朝永神父、三人のイエズス会士、二人のフランシスコ会士、二名のアウグスチヌス会士、二名のアウグスチヌス隠修士会士ら、合計11名で、日本に向かった。紆余曲折に満ちた海路を辿って、1632年8月12日長崎に着き、それぞれの隠れ場所に散っていった。しかし11名の宣教師の長崎上陸が役人の目に留まらないわけがなかった。捜索は熾烈を極めた。ホルダン神父はこう書き残している。

「私たちは一羽の鳩が休む場所すら持っていません」。

「いつも食事に事欠き、眠ることもできず……村々で働いています」。

また殉教者に関する報告や聖ドミニコ信徒会会員聖マリナ修道女の伝記、そして『神の裁きについて』と題する著作を残した。1634年8月4日ホルダン神父は、西神父(このときドミニコ会の神父ではホルダン神父と西神父の二人しか残っていなかった)およびその他の信徒と共に、聖ドミニコの祝いをしようと集まっていた最中に捕らえられた。水責め、局部に竹串を突き刺される拷問の後、1634年11月11日、西神父、大村のマリナ修道女らと共に穴吊りとなった。ホルダン神父は7日間耐えて、11月17日遂に絶命。遺体や焼かれ、灰は海に投げ捨てられた。36歳の若さであった。

1632年11月

日本人ドミニコ会士聖ヤコボ・デ・サンタ・マリーア朝永五郎兵衛神父が来日した。

聖ハコボ・デ・サンタ・マリア朝永五郎兵衛神父(1582―1633)

1582年九州の大村城下の杭出津に生まれた。父はレオン朝永カンサという身分ある武士、母はベアトリスといった。1594年、12歳のとき、伝道士になるためにイエズス会の学院に入学し、そこを出てから伝道士として働いた。「著名な説教師」、「模範的で、潔白で慎み深く、穏やかな人」という評判があった。1614年キリシタン追放令を受けて、マニラに追放された。やがて1624年の半ば頃、マニラのサント・ドミンゴ修道院の門をくぐった。そのとき彼を出迎えたのは、病気の療養と新たな宣教師の募集のために、一時日本から戻っていたルエダ・デ・ロス・アンヘレス神父であった。そのとき朝永は、ルエダ神父にこう言ったという。

「わたしは司祭になりたいと望んで、あちらこちらの修道会になんども入会を申し込んだが、どこにも受け入れられなかった。このたびドミニコ会が司祭への召し出しを感じている日本人にサント・ドミンゴ修道院の門を開いたと聞いて訪ねてきたが、志願者の一人として受け入れてもらえるか」。

院長のメルチョール・マンザーノ神父が入会を許可したとき、朝永は「思し召しのままに」と答えたという。1624年8月15日朝永は、トマス・デ・サン・ハシント西六左衛門と共にドミニコ会の会服を着衣し、ハコボ・デ・サンタ・マリアと改名した。1625年8月17日初誓願。1626年8月15日司祭に叙階され、台湾に派遣され、1632年までそこに留まった。1632年7月9日日本宣教のために、エステバン神父と共にマニラを出航。しかし嵐のために朝鮮まで流されが、幸い5ヶ月後に薩摩に漂着した。ヤコボ神父は1633年3月まで武士の格好をして薩摩に留まり、それから長崎へ行き、管区長代理ドミンゴ・エルキシア神父の前に姿を表わした。ヤコボ神父には、ミゲル九郎兵衛という忠実な伝道士がいた。ところが、1633年7月4日、ミゲル九郎兵衛が捕らえられ、彼は水責めの拷問によってハコ・デ・サンタ・マリア朝永神父の隠れ家を白状してしまった。これによって朝永神父も捕らえられ、共に大村牢に入れられた。1633年8月14日長崎に移送され、1633年8月15日、伝道士ミエゲル九郎兵衛その他の人たちと共に、穴吊りの刑を受ける。朝永神父は50時間後の1633年8月17日遂に天に召された。遺体は焼かれ、その灰は海に投げ捨てられた。

聖ミゲル九郎兵衛伝道士(?・・・1633)

水責めの刑を受けて一旦は信仰を捨てたが、獄内でハコボ・デ・サンタ・マリア朝永神父に励まされ、信仰を取り戻した。朝永神父と共に穴吊りの刑を受け、1633年8月17日遂に天に召された。遺体は焼かれ、その灰は海に投げ捨てられた。

1633年

この年の日本の教会は危機的状況にあった。トマース・デ・サン・ハシント神父は、管区長に宛ててこう書いている。

私は今日まで自由の身で師にお仕えするために生きていましたが、明日何が起こるかわかりません。私を捜す多くのユダに囲まれているからです」。また、中国船で宣教師が日本へ入国することは既に不可能であろうと告げ、「下船したとしても泊めてくれる人もなく、道案内をする者もいないでしょうから、少なくとも2年間は宣教できないでしょう。海で死ぬためか下船後殉教するために来たいのなら止めません。もし入国できれば我々も喜びます」。

1633年2月以降

ルカス・デル・エスピリト・サント神父は、伝道士ドミンゴ・カクスケを連れて、出雲、因幡、但馬、越中、能登、越後、および奥州まで歩き回った。宣教の拠点は大坂か京都である。815日にルカス神父は京都に戻り、殉教への道を辿った。Aduarte (D.),o.p., Historia de la Provincia del Santo Rosario, II, c.45, p.408.

1633年8月9日から10日

ハシント・デル・ロサリオ・エスキベール神父は、日本に向かう船上で、支那人によって賞金目当てに殺害された。その耳と鼻の塩漬けだけが日本に持ち込まれた。

1633年8月14・5日

ルカス・デル・エスピリト・サント神父は、京都の借り家に戻った。

1633年8月18日

ホルダン・サン・エステバン神父を日本に連れてきた支那人たちが争いを起こし、神父を連れてきたことを自白。これがきっかけで、宣教師の捜索が激化した。特にエルキシア神父の捜索は、人相書きを作らせるほど厳しかった。遂にエルキシア神父は捕らえられ、1633818日穴吊りの刑を受け、翌日の19日に46歳で殉教。ホルダン神父はこの事件を知ると長崎に、下り管区長代理として長崎に留まった。

1633年9月6日

ルカス・デル・エスピリト・サント神父は、京都を出て、163396日まで大坂に留まった。

1633年9月8日

ルカス・デル・エスピリト・サント神父は、彼の忠実な協力者マテオ・コヒョーエ(聖マテオ・デル・ロサリオ小兵衛助修士)およびイエズス会の一神父(スーサ神父)と共に、大坂で捕らえられた。

1633年9月9日

ルカス神父、マテオ助修士、スーサ神父は、西六左衛門神父の居所を白状させるために、大坂町奉行所で水責めの拷問を加えられた。やがて兵庫・小倉を通って長崎へ送られた。

1633年9月24日

ルカス神父らは長崎へ到着。

1633年10月18日

ルカス神父、穴吊りの刑を受ける。夜中に一旦引き揚げられた。

1633年10月19日

ルカス神父は、再び穴吊りの刑を受け、同日死去。39歳であった。

1634年8月4日

病身のホルダン・デ・サン・エステバン神父が、彼を見舞ったトマス・デ・サン・ハシント西六左衛門と共に、捕らえられ、水責め、焼けた竹串を爪と肉の間や局部に刺される拷問を受けた。

1634年10月15日

長崎の聖マグダレナ修道女(ルイス・ベルトラン・エクサルチ神父に指導された第三会員)が殉教した。

長崎の聖マグダレナ聖ドミニコ会第三会員・修道女(1610―1634)

1610年頃長崎付近の村に生まれた。1632年、22歳の頃、両親が殉教するのを目撃。ホルダン・デ・サン・エステバン神父の霊的指導を受ける。やがて聖母マリアの御像の前で、「わたしはあなた以外には誰も母といたしません」と約束し、貞潔の誓願を立てた。エステバン神父が逮捕されたのを聞くと、自ら奉行に出頭し自分を逮捕するように願った。爪に竹串をさされたり、水桶に沈められたり、水責めにもあった。1634年10月初め、穴吊りの刑を受ける。彼女は、13日間耐え、待ちくたびれた刑吏が頭を殴り付けたので、彼女は意識を失い、その晩の大雨で溺死した。1634年10月15日であった。

1634年11月11日

エステバン神父と西神父が穴吊りの刑を受けた。エステバン神父は、7日後に死亡。西神父はその少し前に死亡。またその他69名の人々も前後して殉教した。この69名の中には、大村の聖マリナ修道女(ホルダン・サン・エステバン神父の指導を受けた修道女)も含まれていた。

大村の聖マリナ第三会員・修道女(?…1634)

生地や年齢は不明。彼女は「大村のすべてのキリシタンの模範である」という記録がある。彼女は、愛徳の念に駆られて、自分の家に迫害を受けた宣教師やキリシタンたちを匿った。彼女の天使のごとき優しさと勇気、強い信仰は、回りの者たちを慰め励ました。伝記作家は、「日本の聖なる強い女性」と呼んでいる。彼女の霊的師父は最初、ルイス・ベルトラン・エクサルチ神父、次にホルダン・デ・サン・エステバン神父であった。エステバン神父は彼女についての伝記を書いたが、役人に没収され焼きすてられた。1625年か1626年にベルトラン神父の勧めに従って誓願を立てた。1634年、キリシタンを援助しているという理由で逮捕され、大村藩奉行所に引き出された。全裸にされ領内を引き回された。1634年11月11日ホルダン・デ・サン・エステバン神父、トマス・デ・サン・ハシント神父と共に長崎の殉教の丘に引き立てられ、彼女は火炙りとなった。灰は集められ海に捨てられた。

 

次へ