1636年〜1637年

1636年7月10日

ドミニコ会の準備した船で、アントニオ・ゴンザレス神父(管区長代理)、ギレルモ・クルテ神父、ミゲル・デ・アオサラサ神父、ビンセンテ・デ・ラ・クルース塩塚神父、京都出身のラサロ、マニラのビノンド生まれの混血児ロレンソ・ルイスが、琉球に到着が、すぐに抑留される。それから2つのグループに別れて長崎に送られた。

1637年

フェリーペ・デル・エスピリト・サント神父が、台湾からマニラに帰った。

1637年9月13日の午後

ギレルモ・クルテ神父、アオサラサ神父、塩塚神父が、鹿児島経由で、長崎に上陸。

1637年9月21日

アントニオ神父と二人の信徒(京都のラザロ、ロレンソ・ルイス)が別の船で長崎に着いた。

1637年9月24日の夜明け

アントニオ神父が水責めの拷問によって衰弱死。

1637年9月27日

残りの神父たちと二人の信徒が穴吊りの刑となる。

1637年9月29日

穴吊りを凌いだビンセンテ神父、ギレルモ・コルテ神父、ミゲール・オサラーサ神父は、この日、斬首された。これでドミニコ会神父は日本から消滅した

聖アントニオ・ゴンサーレス神父(1593―1637)

1593年頃スペインのレオン市に生まれる。同市のサント・ドミンゴ修道院に入り、司祭に叙階。アヴィラのピエドライタ修道院で神学を講義。1631年極東での宣教師募集に応じてスペインを出発。1632年5月末メキシコ経由でマニラに到着。36名中6名がマニラへの旅路で死亡。やがて、サント・トマス大学の学長となる。1636年6月10日日本に向けて出発し、1ヵ月かかって琉球に到着。すぐに逮捕され、1年近く琉球に拘留。1637年9月21日午前10時、フィリピン人ロレンソ・ルイス、京都のハンセン氏病患者ラザロとともに長崎に到着。水責めの刑、踏み絵の強硬によって、衰弱。1637年9月24日夜明け頃、吐血して死亡。

聖ギレルモ・クルテ神父(1590―1637)

1590年フランスのセリニャンで富裕な貴族の息子として生まれる。1607年8月15日、17歳でアルビの修道院に入院。1608年初誓願。1617年司祭叙階。神学講師の学位を受け、サン・マキシミノ学院で教える。数年後アヴィニヨンの修道院長に選出される。やがて東洋での宣教師を夢見て、スペインのサント・トマス修道院に移動。1634年半ば、20名の司祭、3名の助修士と共にフィリピンに向けて出発。マニラでは、サント・トマス大学で進学の講座を担当。1636年6月ロザリオ管区によって日本宣教の命令を受け、沖縄へ向けて出発。沖縄での潜伏に失敗して一ヶ月も経たない内に逮捕。一年以上沖縄に拘留された。1637年9月13日アオサラサ神父、塩塚神父と共に、薩摩経由で長崎へ送られる。水責め・水桶・鉄釘の三つの拷問を受ける。1637年9月27日穴吊り。しかし生き延びて、1637年9月29日斬首。

聖ミゲル・デ・アオサラサ神父(1598―1637)

1598年2月7日スペイン・ギプスコアのオニャテに生まれる。1615年、17歳でヴィトリアのサント・ドミンゴ修道院に入院。やがて司祭に叙階され、宣教師となる志を立てて、マドリッドにあるサント・トマス修道院でさらに苦行を続ける。1634年初め頃、ディエゴ・ドリャード神父の引率する東洋宣教団に参加。1634年6月24日マニラに向けて出発。フィリピンで使徒職に従事しながら、タガログ語と共に、一日数時間の日本語の勉強に従事する許可を得る。1636年ドミニコ会は、総督の意向を無視して密かに日本への宣教師派遣を準備。1636年6月元船員の修道士を船長にして密かに出航。琉球に到着後、しばらくして逮捕される。1637年9月13日幕府の命令で長崎に護送された。長崎奉行の前では、一人の棄教した司祭(日本人司祭トマース荒木)のラテン語による説得を振り切って、信仰を貫く。アオサラサ神父は、このとき、「貴殿は背教したのでしょう。ラテン語は上手だが内容は良くない」と言って、相手を恥じ入らせた。次いで水責め・水桶・竹串の拷問を受ける。1637年9月27日穴吊り。やがて刀で切り付けられて絶命。

聖ビンセンテ・デ・ラ・クルス塩塚神父(1577―1637)

1577年頃、長崎に7人兄弟の一人として生まれる。おそらく島原半島の塩塚一族の出であろう。9歳になったとき、イエズス会の学院に入学し、伝道士となる。1614年1月27日徳川家康の宣教師国外追放令によってマニラに追放される。2隻はマカオ、1隻はシャム、1隻はマニラ。マニラ行きの船には、7名のドミニコ会士とフランシスコ会士、23名のイエズス会士、15名の日本人伝道士が乗船していた。初め、教区司祭になろうと、セブの司教ペドロ・デ・アルセの援助によって勉学を始め、1619年司祭に叙階される。フランシスコ会が日本潜入の計画を立てていることを知り、フランシスコ会第三会員となる。と同時に、日本での宣教を志す人たちのために、日本語を教授。彼の生徒の中には、アントニオ・ゴンザレス神父、ギレルモ・クルテ神父、ミゲル・デ・アオサラサ神父がいた。またマニラに滞在する日本人キリシタンのためにも熱心に働いた。1625年3月30日聖トマス西と聖ハコボ朝永がドミニコ会に入会する際に身元保証人となる。なお、このとき保証書を書いたのは、マニラに一時戻っていたファン・ルエダ神父であった。1636年6月アントニオ・ゴンザレス神父の誘いに応じて、ドミニコ会の日本宣教団に加わる。1636年7月10日沖縄に上陸。すぐに拘留され、獄中でドミニコ会の修道誓願を宣立する。一年の拘留の後、1637年9月13日、クルテ神、アオサラサ神父と共に長崎に護送される。水責めの拷問に遭い、苦し紛れに棄教を口走ってしまうが、皆に励まされてそれを撤回。1637年9月27日顔と頭の半分に泥を塗られて長崎市中を引き回され、穴吊りとなる。やがて頭に一撃をくらい、1637年9月29日、日本の教会のための輝かしい供え物となった。

聖ロレンソ・ルイス信徒(1600―1637)

1594年フィリピン総督ルイス・ペレス・ダスマリニャスは、パリアンから追放された中国人カトリック教徒のために、私財を投じて、ビノンド地区を購入して、彼らのために安全な場所を提供。更にドミニコ会が彼らのために、サン・ガブリエル修道院を建てた。

1600年頃、ピノンド地区で中国人の父親とフィリピン人の母親との間に生まれた。サン・ガブリエル教会に所属し、ミサ答えなどをして教育を受ける。ロザリオ信心会にも入り、信心会の勤めを立派に果たしていた。公証人として働き、結婚。二男一女をもうけ、平和な生活をしていた。やがてある殺人事件に巻き込まれ、無実の容疑者となる。逮捕を逃れるために(逮捕=死刑)、アントニオ・ゴンザレス神父に助けを求める。神父の計らいで、1636年6月の日本布教船に乗船。マカオに着いたら下船するつもりであった。しかし荒らしに吹き流され琉球に漂着。台湾などへ向かうこともできたが、逮捕される危険があったので、神父と共に運命を共にすることに決した。1637年9月21日ゴンザレス神父、京都のラサロと共に長崎に護送され、水責めの拷問を受ける。1637年9月24日ゴンザレス神父の死を目の前に看取り、1837年9月27日穴吊りとなる。1837年9月29日遺体は焼かれ、灰は海に捨てられた。

京都の聖ラサロ(?―1637)

生年月日は不明。1632年5月、幕府は、その背教政策に屈しないハンセン氏病患者130名を大坂と堺の港で、船底に押し込みマニラに追放。京都のラサロはその中にいた。マニラに滞在する間にドミニコ会の神父たちとひた親しくなり、彼らの日本布教に協力(通訳兼案内役)することを申し出た。1636年6月10日にドミニコ会士と共にマニラを出航。ラサロの最初の役目は、沖縄に着いた宣教師たちを密かに匿うことであったが、役人の知るところとなった。やがて逮捕され、1637年9月21日ゴンザレス神父、ロレンソ・ルイスとともに長崎に護送された。9月22日、水責めによって「信仰を捨てる」と告げたが、水責めは続行。生き延びたラサロは牢内で回心。9月23日再び水責め。遂に1637年9月27日長崎市内を引き回された末、殉教の丘で穴吊りとなる。9月29日穴から引き出されたときには、既に絶命していた。遺体は焼かれ、灰は海に捨てられた。

 

初めに戻る