1章

オリゲネス論争

 


 

1. 断罪の結末

延々と続くオリゲネスの膨大な注解や教話を読んで、そこに「幼稚な言葉遊び」、「奇怪な戯言」、「奔放な想像力」を見出す研究者は多かった。これらの読者にとって、オリゲネスの作品が提出する聖書の寓意的解釈は、途方もない誤読でしかなかった。彼らは、この寓意的解釈が、「根拠のない空想的な方法」に基づくものであり、「期待はずれの解釈学」の実りに過ぎないと考えている。オリゲネスに対する彼らの評価を以下に紹介しよう。

オリゲネスは、聖書解釈を隠れ蓑にして「個人的な見解」を展開するために、前代未聞の大胆さで寓意的解釈を駆使した。オリゲネスにとって寓意的解釈は、「聖書の伝統にヘレニズムを惜しみなく注ぎ込む」ための方法であり、「聖書の文字通りの意味に見出される不条理」を他の場所から取られた「形而上学的真理」で置き換えるための方法であった。寓意的解釈は、託宣の形で伝えられ古代から尊ばれた文書の中に哲学や神学を識別するための学術的な方法であると考えられた。そしてオリゲネスは、必要に駆られてこの寓意的解釈にしがみつき、類のない天才的才能をもってそれを駆使した。オリゲネスは、古代の異教とユダヤ教によってキリスト教に伝えられた象徴的解釈法(symbolisme)を駆使することによって、ヘレニズムと新しい信仰の相剋を克服しようとしたのである。A.ニーグレン(Nygren)は、次のように言っている。「実際、オリゲネスは、二つの拮抗しあう霊的世界の中で宗教生活を送っていた。彼は、自分がキリスト者であることを確信していたが、自覚的なプラトン主義者でもあった。・・・ 彼は、寓意的解釈法の中に、二つ拮抗する世界の和解の可能性を見ていた。彼は、この解釈によって、プラトンの主張と神話を再解釈したのである。しかしもっと重要なことは、このような聖書の寓意的解釈によって、彼は、プラトン主義を、キリスト教の隠れた霊的意味と見なすことができたのである」。

したがってオリゲネスの思想は、福音に立脚していない。オリゲネスにおいては、言葉はキリスト教のものだが、その思想はギリシャ哲学なのである。「合理主義的傾向」に強く影響された彼の方法は、聖書の歴史性を破壊した上で宗教の本質を見出そうとする試みに過ぎない。オリゲネス以外の聖書解釈者たちが、民の必要に応え、教会に共通の信仰に則して聖書に関わったのに対して、司牧的業務をなおざりにしたオリゲネスは、知識人の改宗しかほとんど考えなかった。彼は、知識人を引き付けるために、古代の神話を解釈する際に用いられた彼らの方法を聖書に適用したのである。こうして彼は、「古来の伝承を哲学的に神話に変容」させてしまった。そして彼の解釈は、「旧約聖書を前にして、ホメロスや古代の通俗的神話に対してストア派が取ったのと同じ態度」を取ったのである。「彼の意図は別にしても、彼の方法は、ケルソスやポルフュリオスの批判に相当する」。その結果、彼は、「聖書の意味を変質させ、キリスト教をプラトンのイデア論に変えてしまった」。オリゲネスは、フィロンの解釈に輪をかけて、聖書の実質的な意味である字義通りの意味が馬鹿げているとして、それを蒸発させてしまった。彼は、聖書の中に「寓意」しか見ようとしなかった。彼は、疑わしい護教論と怪しげな神学のために、啓示の歴史性を否定するところまで行ってしまった。彼のこのような方法には、「信仰の不動の事実を朦朧とした思弁の中で消滅させる危険」がある。このようにしてオリゲネスは、「どのような文書にも何らかの教えを見出し、キリスト教がほとんど同定不可能な体系――福音と知識(グノーシス)の一種の妥協――を築き上げたのである。

このような判断が、つい最近まで優勢であった。それは、オリゲネスについて優れた研究が発表されているにもかかわらず、今日でも繰り返されている。数多くの識者が、オリゲネスの断罪をめぐって議論を戦わせた。17世紀のある歴史家は、「この偉大な人物に対する途方もない偏見が、人々の間に広まっている」と述べた。我々は、なぜこのような偏見が広まっり、今日までその影響を及ぼしているのかを後に考察することにしよう。差し当たり我々は、リシャール・シモン(Richard Simon)の批判を思い起こしてみよう。彼は、オリゲネスが「霊的意味を強調した余り、歴史の真理を破壊した」と非難したのである。これは、ペルロンの有名な枢機卿の考えでもあった。この枢機卿によると、「オリゲネスの竈(かまど)は、・・・ キリスト教のすべてを寓意的解釈で精錬し、こね回してしまった」。「彼は、寓意的解釈という欺瞞によって歴史的真理を台無しにし、聖書の堅固さを揺るがしてこれを夢想や妄想に変えてしまった。そして彼は、文字通りの意味を廃棄することによって主要な信仰箇条を霧消させた」。「精神の病」、「不敬虔な考え方」と、枢機卿は言い放っている。反プロテスタント闘争が、彼の偏見をかなり強めているが、読者が彼のこのような判決に驚くことはほとんどなかった。13世紀の終りに、ストラスブールのウルリヒ(Urlich)は、「オリゲネスの誤謬」を次のように表現している。「一切は霊的に理解されねばならず、旧約聖書の文字に真なるものは何もない」と。

このような判断に対して、差し当たり我々は、二つの証言を対置しておこう。先ずセイイェ(Ceillier)は、次のように言明している。「オリゲネスが文字通りの意味にまったく独特の愛着を持っていたことは疑い得ない。「彼は、聖書の解釈における二つの等しく有害な危険からいつも遠ざかっていた。すなわち一つは、すべてを文字通りに解釈しようとする危険、もう一つは、すべてを霊的な意味で理解しようとする危険である」。次にラグランジュ(Lagrange)の証言を見てみよう。彼は次のように言っている。「真実は、オリゲネスが事実の真理性を疑うことが稀だったということである」。人がオリゲネスについて思い違いをするのは、オリゲネスの作品を読まないで、あるいは少なくとも断片しか読まないで、オリゲネスに対する幾つかの非難に影響されてしまうからだろう。ここでこれらの非難を取り上げてみよう。

先ず、オリゲネスが聖書の歴史的記述の現実性を充分に認めていないことを主張するために引き合いに出される例は、ほとんどいつも、世界の創造、地上の楽園、人祖の誘惑と堕落に関する彼の注解から取られてきた。しかしこれに関する聖書の物語は、独一の性格を持たず、解釈者に特殊な取り扱いを求めているのであり、列王記の時代やマカベアの時代の歴史と比較すべくもないのである。「字義的解釈」についての我々の理論を表明するまでもなく、オリゲネスはここで、彼なりの仕方で、健全な批判の先駆者であった。たとえば、太陽も月もないのに昼や夜、晩や朝の継起があったと述べる聖書の個所や、神は、庭師がするのと同じように、ご自分のみ手で楽園に草木を植えたと述べる聖書の個所について、寓意的解釈(allégorisme)を敢えて公言することが本当に必要だろうか。ユスティニアヌス帝の憤慨にもかかわらず、むしろこの個所には、身体的に(swmatiw/j)ではなく象徴的に(tropikw/j)理解されるべき深い教えが潜んでいると考える方が極めて自然である。また、「世界の創造には実際に六日間が費やされたと信じる人たちのように、聖書の記事を手軽に(kata. th.n proceiro,teran evkdoch,n)受け取るべきではない」(CC.,6,60)と考えることは、怪しからぬことなのだろうか。あるいは、オリゲネスが気化させたと物質的現実を確証するために声を荒げた聖エピファニオスに従うのが得策だと本当に考えるだろうか。エピファニオスはこう言っている。「私はみずから、ゲホンの水を見た。私は見たといっているのだ、この私の肉の目で。それは、私が手を触れ、私が飲んだ水だった。それは決して霊的なものではない」と。「神は、人を楽園に置いた――この楽園がどのようなものであろうとも」と言ったナジアンゾスの聖グレゴリオスの慎重さを見習うべきだろうか(Discours38,c.12)。それとも、楽園の史実に対する背教者ユリアヌスの嘲笑に、幸いにも自分の偉大な前任者の見解を対置させることができたアレクサンドリアの聖キュリロスの態度を見習うべきなのだろうか(Contre Julien,1.3)

ここでベルナール・マレシャル(Bernard Maréchal)が表明する情動を共有することは難しい。彼はこう述べている。「オリゲネスによると、神が、楽園に植物を植え・・・地上の楽園を逍遥し、アダムがそこで木の陰に隠れた・・・ということを想像することは粗野であった」と。また我々は、「最初の五世紀の間、創造の六日日間の比喩的解釈は、教父たちがほとんど異口同音に賛同するところであった」ということを忘れないようにしよう。しかし何よりも我々は、この比喩的解釈が、オリゲネスにおける場合のように、この創造物語のすべてに及んでいるとしても、神話を解釈する異郷の哲学者たちやモーセを解釈するフィロンの比喩的解釈とは同類のものでは絶対にないのである。もちろんオリゲネスが、多くのものを他の人たちに負っていたことを否定することはできない。彼は、時代と環境に制約されていた。しかし文化と教義とを混同してはならない。見掛けの類似の下に根本的な主張相互の対立を、見かけの影響関係の下に根本的な変容を見分けることができなければならない。哲学者たちにとって、自分たちの理論の素材となるすべての歴史の中では、人格的存在や霊的事実などは問題にならなかった。英雄や神々の感性的な個別性は、諸事物や人間の魂の本性、あるいは至る所に拡散する神性に変えられている。そして彼らの比喩は、歴史のすべてを、現実のドラマのすべてを一掃し、一切を「世界の構成要素に消失させてしまった」のである(Homélies clémentines,6,c.20)。哲学者たちによると、神話を理解可能なものとし、それらの「霊的な意味」を見出し、隠された「神的な謎」を解読するための第一条件は、それらの神話が前面に出すものは何一つ本当に起こったのではないということを確信することである。なぜなら、「神話は、分かたれざる存在を時間の中に配分し、これまでなかったものを生じさせる」からである(Plotin, Ennéades, 3, 5, 9)。単純な比喩的解釈や聖書の物語をホメロスの神話的物語と同一視する解釈を斥けたフィロンにとっても(De conf.ling.,2-3, De migr. Abr.,89-90)、聖書が語る物事や人物は、――それらに固有の現実がどのようなものであろうとも――何よりも魂の諸能力ないしは内的諸状態の象徴であった。それが、これが、先ず第一に彼の関心を引いた観点であった。たとえば『律法の寓意』と題する彼の論考は、人間の感覚と知性についての論考であり、それに倫理的進歩の理論が付け加わっている。しかしフィロンは、魂の霊的生活や行く末に関心を持っているとしても、彼の解釈は、いわば無時間的な比喩的解釈であり、聖書の歴史性といかなる内的な関連も持たないのである。これに対してオリゲネスにとっては――彼が象徴的解釈(symbolisme)を斥けるいかなる理由を持たないにしても――、本質的に歴史が常に問題になっている。このことは、聖書全体についてのみならず、創世記の最初の部分に関しても言える。もちろんオリゲネスは、この歴史を霊的に解釈する。しかし彼は、歴史を破壊しているのではない。おそらく異論のある仕方でではあるが、歴史は、聖書にある通りに、そして今日でも教会の内にある通りに、彼の思惟の内にあるのである。その歴史とは、私たちの救いのドラマの最初の行為である。

 

2. 古代の論争

オリゲネスの異端論争は、非常に激しかった。アレクサンドリアの司教テオフィロスに続いて、聖ヒエロニムスがオリゲネス断罪の矢を放ったことや、聖エピファネスがオリゲネスを断罪したことはよく知られている。しかし彼らの断罪のいずれもが、等しく誠実さを欠いているのである。特にヒエロニムスによる断罪は、余りにも気まぐれで利己的過ぎて、とても受け入れ難い。ヒエロニムスが、アタルビウス(Atarbius)なる人物の厳命に負け、推奨しかねるテオフィロスの振る舞いをまねて、ただちにオリゲネスへの賞賛を非難に代えた厚かましさには、目に余るものがあるからである。実に、ヒエロニムスは、オリゲネスを誹謗しつつ、その当のオリゲネスの作品を比喩的解釈にいたるまで、絶えず模写していたのである。聖アウグスティヌスは、ヒエロニムスのこのような気まぐれに驚きの念を禁じえなかった。ヒエロニムスは、オリゲネスを貶す人たちを、「吠え立てる犬」と見なしていたのではなかったか。またヒエロニムスは、もしも彼らが我らのアダマンチウス(Adamantius)を断罪するとすれば、それは、彼が真の異端者だったからではなく、彼の雄弁と学識の栄光に耐えることができなかったからであると言っていたのである。ヒエロニムスは、「使徒(パウロ)以後の諸教会の第二の教師である」というディデュモスの言葉を引き合いに出して、そのように言い切っていた。ヒエロニムスの激しい気質や彼がのめり込んだ過激な論争を考慮に入れても、どうして彼が、彼自身多くのものを負っている偉大な解釈者の説明を妄想扱いしてはばからなかったのか説明し難い。また彼が、オリゲネスの冒涜や彼の極悪の誤謬、痴れ言、欺瞞についてよどみなく語ったテオフィロスの罵声を賞賛し、得々と翻訳したのはなぜか、ほとんど理解できない。不当な悪意に満ちた中傷文がギリシア語圏に出回り、ヒエロニムスはそれをラテン世界に知らせようとした。聖エピファニオスのオリゲネス批判は、公正な情報に基づいて書かれたものではない。狭量で視野の狭いサラミスの司教エピファニオスは、オリゲネスに対する馬鹿げた流言を軽々しく信用した点で、聖アタナシオスの聡明さに劣っていた。彼は、オリゲネスの思想を歪め、余りにも単純化していた。エピファニオスがオリゲネスの『諸原理について』やその他の注解から切り抜いた諸定式は、前後の文脈をまったく考慮に入れていなかった。したがってオリゲネスに対する彼の容赦ない批判は、当のオリゲネスの思想とはほとんど無縁であった。

タルソスのディオドロスやモプスエティアのテオドロス、アンティオキアのエウスタトスなどのアンティオキア学派の著作家たちが下す判断についても、同じことが言える。彼らは、聖書解釈史において偉大な痕跡を残したが、公正な判断に欠けていた。オリゲネスの不器用な模倣者たちに苛立ちを覚えた彼らは、その苛立ちに流されて、彼の直面した状況をもはや理解することができなかった。彼らの指導者であったディオドロスは、モーセの記事を寓話扱いしたとしてオリゲネスを糾弾した。ところがテオドロスの理解する寓意とは、オリゲネスが常に考えていたパウロ的な意味での「謎」ではなく、歴史的実在性を否定する意味での寓意であった。彼の弟子のテオドロスも、文字の否定と予型的意味の濫用という二つの非難をもって死後のオリゲネスを攻撃した。彼もまた、楽園の解釈に議論の矛先を向けて、エピファニオスと同様に、楽園を文字通りに理解しようとしていた。『イザヤの幻視についてのオリゲネス駁論』という小冊子の著者は、「オリゲネスは、世界と寓意の雲とをない交ぜている」と言っている。しかしこれは、真面目に受け取ることはできない。ところで我々は、この小冊子をエウスタトスに帰すことができるだろうか。B.アルターナー(Altaner)によると、この書は、むしろ総大司教テオフィロスに帰すべきであり、それが含んでいる不信仰、冒涜、嘘という非難は、この書がテオフィロスの手になることをかなりもっともらしくしている。いずれにしてもアンティオキアの司教は、オリゲネスが「聖書のすべてを寓意的に解釈している」と非難する「エンドルの口寄せ女」についての論考の著者であろう。彼の議論は、はなはだしい無理解を含んでいて、読者は唖然とせざるを得ない。テオフィロスは、オリゲネスが聖書の「この個所」を、彼がいつもするように「象徴的に解釈」せず、文字通りに受け取って自己矛盾に陥っていることをそしろうとしてこの論考を展開しているのである。アレクサンドリア人に対するこのアンティオキア人の真の非難は、実に偏狭な字義主義(littéralisme)に対する避難だったのである!

我々は後ほど、このアンティオキア学派とアレクサンドリア学派の対立をどのように理解すべきか、そしてその対立の歴史的意義はどのようなものであるかを考察してみることにしよう。ここでは単に、この論争が遺憾な様相を呈していたと言うだけにしておく。この論争はやがて、アンティオキア学派についても、アレクサンドリア学派についても、一連の蔑視を引き起こすことになった。タルソスのディオドロスの死後一世紀足らずして、歴史家ソクラテス――ソゾメノスがその後を引き継いだ――は、ディオドロスを一切の「理論」を拒絶した人として描いている。モプスエスティアのテオドロスが、「律法は福音のすべての現実の影を含んでいる」と言っているにもかかわらず、アンティオキア学派は、解釈において字義通りの意味に執着していたというのが世人の見方ではなかったのか。このことは更に、これらの二つの学派の対立を、「知識」と「霊」の対立に突き詰める誤った見方であろう。オリゲネスの時代のアレクサンドリアは、世界でもっともにぎやかな町であると共に、「ありとあらゆる学識の実験場」(Grégoire de Nazianze, Éloge de Césaire)であった。大胆な神秘学や思弁は言うに及ばず、文法学や批判的考証学が栄えていた。後年のディオドロスやテオドロスがどれほど学識のある人物であろうとも、オリゲネスは、疑いもなく更に学識があり、その点で同時代のヒッポリュトスにはるかにまさっていた。キリスト教古代において、オリゲネスの『ヘクサプラ』という記念碑的作品に比肩する作品を作り上げた者は誰もいなかった。今日、オリゲネスの「霊的解釈」を盾にとって、彼の批判的努力をなおざりにしたり、霊的解釈を専門にする人たちを何らかの名目で疑う人は、アンティオキア学派の精神のみならず、オリゲネス自身の精神からも遠く隔たっているであろう。

我々は、これらの当てにならない証言で議論を終えるわけにはいかない。歴史家たちは余りにも安易に、フォティオスやポルフュリオスの主張を信用してしまった。

フォティオスによると、「寓意的」解釈法は、教会の本来的な伝統に基礎を持つものではなかった。それは、フィロン以来のアレクサンドリアの伝統に過ぎなかったというのである。しかしそれこそ、誤りである。メーラー(Möhler)によると、「凡庸な教義学者であったフォティオスは、自分の常套句に夢中だった。そして多様な表現の内に内的統一を見分けることができなかった」。それどころか我々は、更にこう付け加えたい。彼は、ある幾つかの類推の内に、いやある幾つかの借用物の内に、多様な教義と態度があることを見分けることができなかったと。コンスタンティノープルの学識はあるが不公平な総大司教の発言を反駁するには、新約聖書それ自体はもちろんのこと、現存する古代キリスト教の教話、聖ユスティヌスの『対話』や『異端反駁』の第4巻を指摘すれば充分である。シナイ山のアナスタシオスは、次のように書くとき真実にいっそう近づいていた。「教会のもっとも古い人物たち」、すなわちフィロン以外に、「もっとも有名なヒエラポリスのパピアス、リヨンのエイレナイオス、哲学者にして殉教者ユスティヌス、アレクサンドリアのパンタイノス・・・は、楽園について言われた事柄を霊的に観想し、それをキリストの教会に関係付けた」(In Hexaemeron,I.7)

フォティオスの発言よりもっと過激なのは、ポルフュリオスの発言だった。彼によるとオリゲネスは、自分が恥ずかしく不快に思っている聖書を取り払うのに適した方法をギリシア人たちから単に借用しただけだとされている。この個所は余りにも重要なので、再読するのに値する。

「幾人かの人々は、ユダヤ人の書物の貧困と完全に縁を切るというよりも、それから解放されるための手段を見出そうという望みに満たされて、(聖書)本文と何の関係もなく一貫性もない注解に訴えている。それらの注解は、部外者に満足のいく説明を与えるというよりも、身内の者に感嘆と賛美をもたらすものでしかない。彼らは、モーセの書で明瞭に言われたことを謎としてほめそやし、それらは秘義に充ちた託宣であると仰々しく言明している。彼らは、思い上がりの煙で魂の批判的感覚を鈍らせ、その上で注解をしているのである。

このような馬鹿げたことは、私がごく若いときに出会ったオリゲネスという男からきている。彼は、ギリシア人としてギリシアの学識の教育を受けたにもかかわらず、この野蛮な企てにはまってしまった。彼はその振る舞いにおいては、キリスト者として生活した、しかも法律に逆らって。しかし彼は、物事や神性に関する信仰においては、ギリシア人だった。そして彼は、ギリシア人の手法を異国の作り話に適用した。彼は、絶えずプラトンの作品に親しんでいた。ヌメニオスやクロニオス、アポッロファネス、ロンギノス、モデラトス、ニコマコス、その他ピュタゴラス派の教えを受けた人たちの作品は、彼の参考書であった。また彼は、ストア派のケレモン、コルヌトスの著作を利用した。そして彼は、ケレモンとコルヌトスから、ギリシア人の神秘の寓意的解釈法を学び、ユダヤ人の書物に応用した」(Eusèbe, Hist.eccl.,6,19,9)

オリゲネスが、わずかばかりの間、アンモニオス・サッカスの門弟であったことは確かである。しかしそのときの彼は、「ごく若く」はなく、既に要理教育者として活動し、聖書に関する偉大な作業に取り掛かっていた。また確かに彼は、『諸原理について』以前に、『雑録』(ストローマテイス)や幾つかの哲学的な小論文を著している。しかしこれらの作品が証言するギリシア文化(ヘレニズム)への手引きは、晩熟のものであった。「彼は、熱烈な信仰の内に育てられた。そして彼は、後に哲学者になったが、それはひと時の間だけだった」(René Cadiou)のである。したがってポルフュリオスは、思い違いをしている。あるいは彼は、少なくともオリゲネスを異教の教育を受け入れた者として(読者に)思い込ませることで、事態をかなり歪んだ形で提示しているのである。もちろんポルフュリオスは、オリゲネスが異教からキリスト教に移ったとまでは言い切っていない。厳密な意味での宗教的回心は、ポルフュリオスの視野にはなかった。だから彼の見解は、事実に反している。またオリゲネスが異教として生活し、彼の教えはキリスト教からの借用物に他ならないという判断も間違っている。ポルフュリオスが、世俗の思想からキリスト教の思想への転回を帰しているのも、真実からほど遠い。オリゲネスは、何故あるときからギリシア人たちの学識の研究に専念したかを説明する書簡で、みずから次のように言っている。「私は、説教に身を捧げていました。私の教育の教育の評判は広まっていました。そして異端者や、ヘレニズムの教育、特に哲学の教養を身につけた人たちが私のところにきていました。このことが、異端者の見解や、哲学者が真理について語っていること検討するように私に促しました」(Eusèbe, Hist.eccl.,6,19,12)。これが一番自然なことであろう。したがってティユモン(Tillemont)が次のように言うのは正しい。「オリゲネスが、哲学を研究したのは、要理教育学校で有名になってからである」と。更にオリゲネスの作品には、キリスト者における寓意的解釈の起源に関して、ポルフュリオスが間違いを犯していることを確信させる非常に明瞭な証言が保存されている。すなわち『ケルソスへの反論』は、「ユダヤ人たちとキリスト者の間でもっとも分別をわきまえた人たちが(聖書の)事柄を寓意的に解釈すること、あるいはむしろ彼らが恥ずかしく思って、寓意的解釈に頼ることに不平を言うケルソスの言葉を引用しているのである。ポルフュリオスは聖書を攻撃するために、寓意的解釈法が聖書の弁護のためにもたらしうる利益を「ガリラヤ人たち」から奪わなければならなかった。彼は、オリゲネスが反駁したばかりのケルソスの所論を繰り返しながら、彼の前任者ケルソスがその論争の中で享受していた利益を奪われないようにした。しかしポルフュリオスは、ケルソスが、まさにオリゲネスよりも前の時期に、キリスト者が聖書を寓意的解釈しようとしていたと非難しているのに、その当のケルソスの批判をオリゲネスに向けられたものだとしたのである。

このような歴史的な誤りは、ポルフュリオスにおいては、より根本的な解釈に関する表面的な誤解に過ぎなかった。彼の尊大な保守主義、「野蛮人」の宗教に対する蔑視は、彼が、二つの契約の書を前にしたキリスト者の態度の独創性や価値を理解することを不可能にさせていた。彼以後の時代の人々と同じように、彼は、オリゲネスの偉大な思想が、キリスト教の精神に忠実であったとは思いもつかなかったのである・・・。しかしながらフレッペル(Freppel)が述べているように、「オリゲネスは、旧約聖書が新約聖書の予型であることを、ヘレニズムの代表者たちから学ぶ必要をまったく感じなかった」。更に我々は、ポルフュリオス自身が異教徒の立場を守るために寓意的解釈を実行していたことを思い起こしておこう――このことは、「ニンフの隠れ家」についての彼の論文から察することができる。彼は、そのキリスト教の敵手の内に出くわした寓意的解釈をキリスト者と同じ仕方で構想していた。このときの彼を引きつけたのは、人間の起源を解釈し、聖書の擬人神観を説明するキリスト者の試みだった。ともあれポルフュリオスの証言を我々に伝えるエウセビオスは、思わぬ誤解を招くことになった。彼は、次のようにこの証言を結んでいる。「以上のことは、この欺瞞者の中傷と、ギリシア人の学識におけるオリゲネスの偉大な能力とを証明するために述べてみたものです」と。エウセビオスの読者たちは、この最後の言葉にしばしば捕らわれ、ポルフュリオスの主張を無条件で受け入れてしまった。多くの人たちがポルフュリオスの言葉を引用した。中には彼の言葉を拡大解釈して、「ポルフュリオスなる人物は、不純物を排した上で、オリゲネスの神学を受け入れることができた」(Harnack)と言う者がいた。またある人は、「その悪意は別にしても、ポルフュリオスが寓意的解釈に与えた説明は完璧である。それは、オリゲネスの解釈に見事に当てはまる」(E.de Faye)と書いた。

 

3. オリゲネス対オリゲネス

どうして弟子の弁明よりも、誤った情報しか得ていない敵対者の悪意により多くの信用が与えられるのか。これにはそれなりの理由があった。オリゲネス自身の発言が、このことを用意したように思われる。

『ケルソスへの反論』の中で、オリゲネスが敵対者の立場に立って議論を進めるところがある。しかしそれがオリゲネス自身の視野を歪ませる結果になったしまった。彼は、進んでこの種の論法を実施した。ケルソスは、ユダの裏切りを愚弄した:オリゲネスは、プラトンもアリストテレスに裏切られたと答える(CC.,1,65)。人々はイエスの復活を信じていない:しかしプラトンは、アルメニオスの息子エルが12日目に薪の山から起き上がったという物語を知っていたのではないか(CC.,2,16)。もしも神も神の子も地上に降りてこなかったと言えるなら、託宣を伝えに来たギリシアの神々については、どう考えるべきか。「アポロン、アスクレピオス、その他すべての神々は、天から来た神々であろう。そうであれば、受肉したみ言葉は、鬼神のひとりに過ぎないのではないか」(CC.,5,2)。更にイエスは、の神的誕生の信仰を正当化するために、作り話の神々以上に驚異的な行いをしたのではないか(CC.,1,67)

ご覧のように、オリゲネスはこの論法で、かなり大雑把な類推に満足している。そればかりか彼は、厳密な意味での真理を度外して、敵対者との接点を求めようとしている。このことが、彼をして、たとえば東方の三博士を導いた星について、幾らかぞんざいに書かせることになった。すなわち「東方の三博士と星の出現について我々に言われたことを検討しなければならないとすれば、私は、ある原則に基づいてギリシア人たちと議論し、他の原則に基づいてユダヤ人たちと議論する」(CC.,1,59)と。聖書の弁明において彼は、あまり厳密に議論しない。ケルソスは、「聖書を理解するために、より崇高な意味を求めることなく、律法と預言者の文字通りの意味に留まらなければならないと思い込んでいる」点で、間違っている。そしてオリゲネスは、このより崇高な意味に愛着するキリスト者の権利を、その意味を立ち入って定めることをせずに、ケルソスに対して要求しているのである。オリゲネスにとっては、反対者の諸原則で反対意見をかわすことで充分であった。ケルソスは、エバの「神話」を嘲笑した;オリゲネスは、パンドルの神話を持ち出して彼に応えている:「ヘシオドスが、火の盗んだことを罰するために男たちに与えられたとする女性についての物語を比喩的に解釈すべきだとすれば、男が寝ている間に神がその男のわき腹から取った女性についの物語に、隠された意味を見出してはならないのだろうか。ヘシオドスの物語を作り話に覆われた哲学的神秘として敬服する一方で、モーセの物語を文字通りの意味しか提供しないものとして嘲笑することが誠意あることだろうか」(CC.,4,17 et 38)。聖書に対する憤慨と嘲笑をかわすために、聖書の物語とギリシアの伝統やその他の異教の伝統との物語の間に存在する類比を際立たせているのである。もしもギリシアや異教の知識人たちが、深遠な意味を見つけることが許されているとすれば、キリスト者も、同じことをすることができるのではないだろうか。「ええ!ギリシア人には、自分たちの知恵を覆いで隠す特権があり、エジプト人やその他の非ギリシア人にも、同じ特権があるというのか。そしてユダヤ人は、彼らの法律やその他すべての著作に関して、あなた方には、すべての人間の中でもっとも粗野な人間になるのか。ユダヤの民は、神がご自分の光を注がなかった唯一の民族なのか」(CC.,4,38)。聖書が問題になるとき、なぜぞんざいな扱いがなされるのか。「人々が、ギリシアの著作家の中に、自分たちの神々についての架空の系譜や彼らの十二主神の歴史を読むとき、人々は、それらの物語を比喩によって説明する。ところが我々の聖なる書物になると、それがどのような内容のものであれ、人々は愚弄する態度を取るのだ」(CC.,4,48)

オリゲネスは、何度もこのような論法に訴えている。この論法は彼の心を片時もはなれず、彼はこの論法が反駁不可能なものと感じている。しかし彼は、この論法を、類比の中に相違が現れるほどには推し進めなかった。「エジプト人が作り話をしゃべるとき、人々は、エジプト人が自分たちの哲学を象徴や謎の下に隠していると想像する。しかしモーセが、民全体を教育するために歴史を書いた後で、民を治めるための律法も与えたとき、人々は、それらの律法は架空の作り話であり、しかも比喩的意味さえ受け付けないと主張する」(CC.,1,20)。またオリゲネスは、ヌメニオスに感謝している。ヌメニオスは、キリスト者ではないが例外的に、「我々の聖書が比喩を含んでおり、決して不条理を含んでいないことを認めている」(CC.,4,51)のである。

このことは、既に偏見に満たされたせっかちな読者を誤らせずにはおかなかった。しかしながらオリゲネスはみずから、この誤解を予防しようとした。「この弁明を読もうとする人は誰でも、この弁明が真の信者のために書かれたものではなく、キリストへの信仰を決して味わったことのない人たち、あるいは使徒が言っているように、信仰において弱い人たちのために書かれたことがわかるだろう」(CC.,praef.6)と。聖ヒエロニムスも読者にその誤りを悟らせるのに役立つことができたかもしれない。実際、ヨヴィニアヌス(Jovinianus)との論争が幾つかの批判を招いたとき、ヒエロニムスは、オリゲネスと彼の『ケルソスへの反論』に言及して自己を弁護せざるを得なかったのである。オリゲネスは別の作品で、「私たちは、異教徒を信仰に導くために、異教徒からしばしば表現を借ります」(Hom.Jr.20,5)と言っている。同様にオリゲネスは、キリストの教えを正当化するために、あるいは批判を多少とも和らげるためにあらゆる比較を試みている。しかし注意深く読めば、この比較が誤解を招くことはない。類比が常に再前面に出る場合、オリゲネスの様々な発言は、類比が全面的でないことを推察させてくれる。モーセの文字通りの意味は、それ自体、威厳に満ちている――サトゥルヌスの奇怪な物語やその他の多くの物語と比較すべきものはほとんどないのである(CC.,1,16-18)。そして異教の物語は、文字通りに受け取れば不道徳で、とてもありそうに思われない。そればかりか、賢者たちがそれらの物語について与える解釈は、支離滅裂である。これに対して聖書の寓意は、「正しく、かつ充分な理由を有している」(CC.,3,23)。何よりも人々は、オリゲネスが、ギリシア人のためと同様にキリスト者のために、寓意的に解釈する権利を要求した後で、この権利を行使しているのに気づくだろう。彼は、ノアの大洪水と箱舟の字義通りの意味(littéralité)を正当化する(CC.,4,41)。彼は、バベルの塔の話についても同様に扱い、「この話から歴史的な意味と類比を引き出すことができる」(CC.,4,21)と言っている。更に彼は、啓発された精神の持ち主にとっては、聖書の歴史的物語は真実であるが、そこには更に隠された意味が含まれていると言うのである(CC.,5,31)。したがってどちらも人間に対してそれなりの価値を持っているとしても、モーセの書と、「リヌスやミューズ、オルフェウスなど」についての書とを一緒くたにすることはできない(CC.,1,18)。ケルソスは、モーセの書に関して無礼なことしか書くことができなかった。なぜなら「彼は、預言者の内で語る霊の本性もみ言葉の本性も知らなかった」(CC.,6,50)からである。

これらの特徴は、我々に次のことを予感させてくれる。すなわちオリゲネスの解釈から際立ち、彼がその作品全体を通して表明している彼の本当の教えは、彼がケルソスに応えるために暫定的に想定しているように見える教えとはかなり違う。それは、彼の思想の一部分でしかなかった。いずれにしても彼の真の教えは、ケルソスへの回答をはみ出しており、それをまったく別の着想のもとに統合しているのである。また、他の注解や講話とは必ずしも一致しない『諸原理について』という彼の理論的著作についても、ある程度、同じことが言える。「この本には、具体例が欠けている。ところで具体例が最も重要である。なぜなら具体例は、どのような意味で一般的原理が理解されねばならないかを教えるからである」(Jules Martin)。我々は後ほどこの問題に立ち戻ることにしよう。しかし以上に指摘によって、他の人の手になる何らかの抽象的な解説や偏見に満ちた文書を通してではなく、まさにオリゲネスの作品そのものを通してオリゲネスを見ることが大切であることが明らかとなる。

作品を通してオリゲネスを見る。それは、彼を読み直すことであり、これが最も欠けていた。我々が言及した多くの申立ては、この再読の後でおのずから振り落とされることになろう。しかしオリゲネスが読まれることはほとんどなかった。もしも我々がこれをしなければ、生前のオリゲネスを知る弟子のパンフィロスの苦情は、再び現実のものとなろう。

「我々は、彼の敵対者たちが、ぶしつけに彼を非難し侮辱するのを見る・・・。彼らは、しばしばその点で笑いものになる・・・。彼らが槍玉に挙げるオリゲネスの考えを、どの著作ないしはどの節から引き出してきたかを問うと、彼らは、それは知らないとか、一度も読んだことがないとか、風説でしったと白状せざるを得ないのである・・・」(Apologie d’Origène)

人々は、断片を通してしかオリゲネスを読まないし、彼を理解するために十分な努力もしない。人々は、偏見の目で彼に近づく。一切の霊性主義(spiritualisme)を疑ったペルロン(Perron)がそうであり、我々現代人の多くがそうである。従来の批判者たちは、文字と霊、現実と象徴、知識と神秘が対立するものだと思い込み、歴史的現実と教義の字義どおりの意味(littéralité)を特に際立たせることに気を取られて、いわゆる「実証的な」諸与件を超え出る一切のものに理解を示さず、オリゲネスの作品の意義を読み損なっている。彼らの反神秘主義的傾向は、オリゲネスの神秘主義に我慢がならなかった。また人々は、合理主義的な歴史家や自由主義的なプロテスタントの人々に起因する幾つかの一般論に影響されている。ある人たちにとって、キリスト教は、東方の伝説へのギリシア哲学の諸概念の適用に過ぎなかった。また他の人たちにとっては、科学的教義神学が少しずつ原始の信仰に取って代わり、キリストの宗教をヘレニズムの鎖に繋ぎ止め、それを哲学に変容してしまった。そしてオリゲネスの聖書の霊的解釈は、この歪曲の大きな武器になったとされる。カトリックの歴史家は、このような理論を受け入れはしなかったが、この理論が押し付ける展望から充分に離れることができなかった。人々は、オリゲネスの解釈法が断罪の対象となったと思い込んできた。あるいは少なくとも、それが後の正統的教義をしつこく悩まし、教会のすべての教父たちによって厳しく非難されてきたと思っている。このような歴史的誤解を詳しく説明することは難しい。神学史に関する優れた諸著作が、この誤解を吹き払うために読まれることはほとんどなかった。それにもかかわらず、多数のギリシア人やラテン人は、自分たちの注解や説教においてまさしくオリゲネスに従っていたのである。たとえばオリゲネスの『ヨハネによる福音注解』は、「全ギリシア教会にとって聖書解釈の模範となり、模写され、模倣され、数世紀にわたってその価値を保ってきた――オリゲネスの教義神学が長い間断罪されてきたとしても」(Lietzmann, Hist. de l’Église ancienne)。西方においても、ラテン教会の四大博士の解釈は――これらの四大博士には、聖ヒラリウスやその他の教父を付け加えなければならない――オリゲネスのその注解にしっかりと依存していた。『フィロカリア』の編集者たちは、『諸原理について』の第四巻をほとんど完全に複製した。彼らが、自分たちの師の教えを賢明に選別したと評価されるのは、この点に関してだけではない。オリゲネスの寓意的解釈法は、その始めから、激しく攻撃されていた。しかしパンフィロスは、これらの非難を押し退けるのに困難を覚えなかった(Pamphile, Apologie d’Origène)。オリゲネスの最初の強敵オリンポスのメトディオス(Méthode d’Olympe)は、解釈においても神秘神学においても、彼の完全な弟子であった。レランのヴィンセンティウス(Vincent de Lérins)は、その『備忘録』(Commonitorium)の中で、オリゲネスのことを賞賛しつつも厳しく語っているが、彼の解釈法にまったく論及しなかった。当然、四世紀のオリゲネス論争においても彼の解釈法は問題にされなかった。もっともこの論争では、実際にはオリゲネスその人が問題になっていたのではなかった。寓意的解釈法は、543年の断罪においても、553年の断罪においても話題にならなかった。・・・1893年に発布された回勅『すべてを見とおされる神』(Providentissimus)の中では、オリゲネスの名が無条件にたたえられた。それにもかかわらず、誤解は存在している。

最後に、既に彼の存命中から、みずからそれと認めることはなくとも、しばしばオリゲネスの天才的才能を恨めしく思う人々がいた(Cf.Hippolytos, Commentaire sur Daniel, 1.3,c.16)。人々は、きちんと理解することもなく彼の霊的解釈を責め立てた。しかし人々は、霊的解釈そのものをあえて公然と排斥することはなかった。これは、危険な態度であった。なぜなら「極端な霊性主義」(spiritualisme outrancier)が存在する一方で、排他的で「極端な字義主義」(littéralisme outrancier)が相変わらずはびこったからである。この極端な字義主義は、オリゲネスの時代ほど有害なものではなかったが、それは、当時の人々の心を揺り動かしていた諸問題が、我々にとって致命的な重大さの多くを失っていただけのことである。極端な字義主義は、教会の伝統に反していた。このことを忘れていないキリスト教史家は、まさにそのことによってオリゲネスを正当に評価することができた。たとえばバルデンヒューア(Bardenhewer)、ラグランジュ(Lagrange)、デュラン(Durand)、プラ(Prat)、カヴァッレラ(Cavallera)、バルディ(Bardy)がそうである。三世紀の教会においては、字義主義の危険は、絵空事ではなかった。千年王国説が致命傷を受けたのは、他ならぬオリゲネスによってであった。この千年王国説は、テルトゥリアヌスが信仰箇条の一つにしたものであり、その前世紀には善良なユスティノスが堅く信じていたものである(Dialogue avec Tryphon)

ところで千年王国説に対する勝利は、信仰の純粋さを守ってきた数々の勝利の中でも最も大きな勝利の一つである。メーラー(Moehler)は、この勝利の大きさをよくわかっていた。「オリゲネスは、いたるところで、キリスト教について深い知識を展開した。彼はいたるところで、その独自の性格を際立たせた」。ある人たちはキリスト教の啓示を「空想的な思弁」に変えて、ある人たちはそのキリスト教の啓示に、「ひどく物質的な解釈」を与えてしまった。オリゲネスは、この二重の危険からキリスト教の啓示を救ったのである。「彼が実践した聖書の神秘的解釈は、キリスト教についてのより純粋な概念の誕生と密接に関係している。・・・ そこでは原始教会の最も顕著な現象の一つが問題になっている。とはいえ、その現象がふさわしく評価されることは一度もなかったが」。このメーラーの証言に呼応しているのがニューマンの証言である。ニューマンは、その随筆『キリスト教の教義の発展』の中で次のように言明している。「霊的意味において聖書を使うことは、教会の教えの主要な特徴の一つである」と。

 

4. オリゲネスの作品

 オリゲネスは、膨大な量の著作を遺してこの世を去った。彼の作品は、一千近い表題を含んでいた。この巨大な宝蔵は、何よりも聖書の解釈からなっているものであったが、一世紀以上にもわたって大いに利用された。しかし彼の著作の普及は、重大な障害に出会わざるを得なかった。言うまでもなく批判は絶えなかった。彼に対する批判は、既に彼がアレクサンドリアにいる時期から行なわれていた。そして彼が死んで早々、その批判はますます激しくなった。その後、オリンポスのメトドス、アレクサンドリアのペトロ、アンティオケイアのエウスタトス、パコミオスが、オリゲネスの時として暴力的な断固たる反対者となった。さらに、神学的省察の努力が進展している段階で、正統性そのものが形成されつつあったとき、ニカイア公会議以前の大多数の神学者たちが、その信仰の説明にあたって試行錯誤を繰り返し、不十分さを露呈していたことは避けられないことであった。教義の形成にあたって重要な役割を果たしたオリゲネスの才能さえ、欠点を免れなかった。しかし、オリゲネスの弁護者は、当初から存在しないわけではなかった。弁明の数は、攻撃が増えるにつれて増加していった。アタナシオスやカエサリアのエウセビオスなどの多様な著名人たちによる賞賛は、決定的な保証であるように見えた。彼の著作は、直ちに、西方および東方で光彩を放った(キュプリアヌスへの影響は確証されている)。本格的な論争に先立つ前哨戦において、オリゲネスの著作は無傷のまま保たれ、流布しつづけた。しかし、375年ごろを境として、状況は一変した。聖エピファニオスの『パナリオン』によって口火を切られた大掛かりな攻撃は、オリゲネスの諸著作を水没させる最初の暴風雨となった。オリゲネス批判は、6世紀に最も激しくなった。このとき、グノーシス主義とカバラとから借用された諸特徴を『諸原理について』のいくつかの観念と混ぜ合わせて奇妙な体系を作り上げたシリアの修道士ステファノ・バル・スダイリ(Étienne Bar Sudaili)の極端な教説は、ユスティニアヌスの逆鱗に触れた。もっとも重大だったのは、553年の公会議の諸教父たちが、公式の会議に諮らずに作成した15の異端目録にあったのではない。なぜなら、問題にされた資料は、オリゲネスのものではなかったからである。

 A.d’Alèsによると、オリゲネスの異端問題は、公会議の公式に審議項目には上っていなかった。また、543年の地方教会会議の決定も、553年の公会議の会場外決定も、教皇の裁可という事実だけでは、厳密な意味での信仰の定義にはなり得ないのである。さらにG.Brdyは、オリゲネスの『諸原理について』の原文とラテン語訳についての研究の中で、次のように言っている。「553年の公会議では、オリゲネスは最前面にはいなかった。異端宣言には、彼の名前は登場していない。ユスティニアヌスが手にした資料は、オリゲネスの作品ではない。それらの資料はおもに、少なくともピタゴラスやプラトン、プロティノスが問題になっている公会議宛書簡の第二部に関しては、テオドレトスの『ギリシア人の感情のいやし』(Graecarum affectionum curatio)という著作に由来しているのである。ユスティニアヌスが追及したのは、オリゲネスではない。ユスティニアヌスが大衆の怨嗟の的にしたのは、彼の作品でもなければ、彼の作品の抜粋でもない。皇帝が念頭に置いていたのは、現実の異端者たち、パレスティなの修道院の平和を乱していた修道士たちである。当時の慣行では、彼らの誤謬の起源を説明し、彼らの教えをその誤謬の創始者たちに関連付けねばならず、またピタゴラスやプラトン、そしてプロティノスの信奉者たちにも同様にしなければならなかった。これと同様に、オリゲネスの信望者たちに対する扱いも同様であった。なぜならオリゲネスの名前は、数世紀間ではないにしても、多年にわたって、考え得るあらゆる誤謬に付きまとっていたからである。この公会議宛書簡の受取人たちは、ユスティニアヌスの命令に従わざるを得なかった。彼らは、オリゲネスを断罪し、また、彼と共に、彼の信望者エヴァグリオスとディデュモスを断罪したのである」。

 とにかくこれらの断罪の後に続いたものは、彼の作品の破棄であった。4世紀末に開始された彼の作品の破棄は、この公会議の断罪を受けて組織的に行われた。オリゲネスのほとんどすべての作品が失われた。こうして彼の膨大な数に上る書簡の内、わずかに二つの書簡と幾つかの断片が残るのみのなった。彼の解釈の方法論は決して問題視されることはなかったとはいえ、彼らの注解の内、我々が今日、原文で手にすることができるのは、実にその20分の1ほどである。東方の図書館に所蔵されている文献を調査してみても、意味の余りない断片しか発見されなかった。なおフォティオスは、オリゲネスの『諸原理ついて』を含むギリシア語写本を見ていたことが知られている。

 オリゲネスの諸著作の喪失の代価は、いかばかりのものだろうか。エピファニオスとユスティニアヌスは、キリスト教文化の敵に値したと言っても過言ではないだろう。

幸運にも、幾つかのラテン語訳が存在していた。それは、聖ヒラリウスや聖ヒエロニムス、あるいはその他の人物の手になるものである。聖ヒラリウスは、オリゲネスの『ヨブについて』という論考を訳したが、今日では失われている。聖ヒエロニムスは、エレミア書、エゼキエル書、イザヤ書、雅歌、ルカ書についての講話を翻訳した。カッシオドロスの友人のベッラートル(Bellator)は、エズラ記についての二つの講話を訳したが、これらも現存しない。また無名の人によるマタイ書注解の部分訳も伝えられている。しかし現存するラテン語訳の大部分は、アキレのルフィヌスの手になるものである。ルフィヌスの翻訳については悪評が高かったが、彼の翻訳を研究した最近の歴史家たちは、行き過ぎた酷評に反対している。彼の翻訳は、翻訳の目的にうまくかなっていた。それらは、よどみなく、明晰で、読みやすい。これが彼の翻訳の長所である。ルフィヌスが、ヒエロニムスと同じ雄弁さで、オリゲネスの言い回しを翻訳することはできないと言っても(De Princ.Fraef.1)、実際には彼は、しばしばオリゲネスの言い回しを見事に翻訳しているように見える。ただルフィヌスの翻訳は、原著にもう少し忠実で、もう少し字義どおりであってほしかった。とはいえ、教義史家に重大な問題を提起したのは、ほとんど『諸原理について』の翻訳だけだった。『ローマ人への手紙』注解の翻訳は縮訳版であったが、これは明らかに当初からの目的であった。実際、ルフィヌスは、既存した原文に基づく翻訳作業は困難を極めると打ち明けているのである。また他の著作に関していうと、ルフィヌスは、若干の翻案を行っている。彼は、しばしば敷衍し、そう頻繁なことではないが編集することもある。また彼は、ラテン人に必要だと判断する限りで、原文に説明を付加することもある。このことは、彼が読者に「私たちが理解できるように簡単に訳しました」と言っていることから(Lettre à Héraclius)、推察することができるだろう。この言葉は、特に、ヨシュア記、士師記、詩篇(36-38)についての講話に当てはまる。創世記、出エジプト記、レビ記についての講話に関しては、ルフィヌスは、大胆に文体を変えたことを認めている。この場合でも、原文への実質的な忠実さを常に疑う必要はないだろう。ともあれルフィヌスの残した翻訳はすべて、我々にとって測り知れない値打ちを持っている。彼は、翻訳作業に従事していたとき、自分の企ての測り知れない重要さを疑わなかった。彼が聖ヒエロニムスにどれほど攻撃されようとも、意気を失わなかったのは幸いである。彼は、キリスト教古代でもっとも貴重な記念碑的作品の幾つかを、決定的な破壊から救い、その翻訳をしてラテン人の知性を長きにわたって形作ることになったのである。

しかしながらルフィヌスの翻訳の使用は、一人ならずの歴史家によって拒否されてきた。彼の翻訳は幾度も疑わしいものと見なされたが、そのような完璧主義は行き過ぎである。精確な主張や教義上の特別な問題なら別として、思想の大筋をつかむということであるなら、我々は確実な地盤に立っている。何よりも最善の方法は、使用を差し控えることではない。むしろルフィヌスの翻訳を大々的に使用することである。真正なオリゲネス像に迫る機会を捉えるには、引用を多くしなければならない。並置された引用文は、互いに抑制し合い、規定し合い、相互に注釈し合う。たとえばルフィヌスのラテン語訳とヒエロニムスのラテン語訳、そしてギリシア語原文で保存されているオリゲネスの本文が比較可能な場合には、特にそうである。このような場合は、まれではない。そしてこのような様々な引用文の突合せから、統一的な像が浮かび上がってくるのである。彼の多様な作品を通して、そして彼の作品を我々に伝える様々な翻訳を通して、オリゲネス自身が立ち現れてくる。

このような観点に立てば、オリゲネスの作品の幾つかを使用しないという態度は、正当化されないことになる。人は時として、我々がラテン語訳でしか手にしていない講話ばかりでなく、ギリシア語原文で残っている講話も、さらには『殉教への勧め』などの著作を過小評価したり、遠ざけたりしてきた。それらは、通俗的なオリゲネス主義を表すもの、オリゲネスの思想の通俗化、大衆向きの文書であり、オリゲネスの真の思想の再構成するのに相応しくないと考えられてきた。ただ、『諸原理について』『ケルソスへの反論』、そして幾つかの大注解書のみが確かな素材を提供することができるとされたのである。しかしながら、オリゲネスの作品のこのような選別は、恣意的である。それは、オリゲネスの人となりと彼の考え方への軽蔑に起因している。このよう偉大な人物の筆や口から出る一切のものが必ずしも同じ性格を持つものではないこと、彼の作品の全体に均一の重要性を帰すことは決してできないことは、自明であろう。だからといって、彼の作品のすべてには同じ誠実さが見られないとか、同じ真剣さが見られないと考えることはできない。彼の『ヨハネによる福音注解』と『殉教への勧め』はともに、同じアンブロシウスに捧げられていることを忘れてはならない。オリゲネスは、「旅行者が町の記念建造物を探索するためにその町に入るように、聖なる事柄について究めようとする」詮索好きで超然とした人物ではない(Clément, Strom.1,1,6.)彼のキリスト教は、生活から超然とした思弁でもなければ、教会の関心の的から外れた夢想なのでもない。彼のもっとも高度な思索においても、彼のもっとも実践的な勧めにおいても、彼のキリスト教は現実に積極的に関わるキリスト教であった。この事実を充分に認識せず、オリゲネスを、一般大衆に語るために仮面をかぶった知識人であり、彼の真の生活はキリスト教共同体の埒外にあると想像する歴史家は、その方法においても、その解釈においても既に間違っている。このような歴史家は、オリゲネスの作品を選別することによって、無くてはならない源泉をみずから断つばかりでなく、手元に残したオリゲネスの作品の意味をゆがめることにもなったのである。  

 さらに別の誤解が、オリゲネスの作品に対する疑念や先入観に加わっている。人々は、オリゲネスの作品に対して学識家、批評家、哲学者にはなりえても、彼の思想に常に存在していた霊的な諸問題にほとんど踏み込まない。オリゲネスの人格の背後にはいけるキリストがいることがほとんど視野に入れられていない。したがってキリスト教信仰の内部に息づく真の思考、真の関心をうまく捉えられないでいる。これが従来のオリゲネス研究者の態度である。彼らは主知主義的な関心からオリゲネスに接近した。

 この点で、Walther Völkerの『オリゲネスの完全性の概念』(Das Vollkommenheitsideal des Origenes)は、オリゲネスの作品を選別的に研究する方法や余りにも主知主義的な解釈に対して、一つの反動をなしている。フェルカーは、資料を十全に吟味しながら、オリゲネスを何よりも神秘化と断定する。彼は、それまでしばしば歪められてきた、ないしは無視し得るものとされてきたものに光を当てた。しかしそれは、彼の描くオリゲネス像が真相に迫っているということではない。彼が果たして、本当にオリゲネスを描き出すための疑いえない視座を獲得していたのかどうかは疑問である。神秘主義の概念が、様々な理由で曖昧である。さらに彼がオリゲネスについて、みずからに課している問題は、オリゲネスが主知主義者なのか神秘家なのか、そしてどの程度そのいずれなのかということではなく、むしろオリゲネスは結局のところヘレニストなのか、それともキリスト者なのかという問題なのである。事実、「ヘレニズム」という言葉には、主知主義的な意味合いばかりでなく、神秘主義的な意味合いが含まれている。したがって教会の最初の数世紀のキリスト教思想の歴史に、ヘレニズムによる福音の漸進的汚染しか見ようとしない人々は、フェルカーの著作の中に、ハルナック(Harnack)やユジェンヌ・ドゥ・ファイユ(Eugène de Faye)の著作で見たのと同じ議論を見るだろう。もちろん、オリゲネスを考察する視点の如何によっては、彼の思想の内にあるヘレニズム的要素を無視できないだろう。キリスト教にはおよそ受け容れがたい要素が存在することは事実である。たとえば、『諸原理について』には、霊的世界の先在の観念や、始原に似た終局の観念などが見られるのである。しかしながら、神秘神学という言葉を敢えて使えば、オリゲネスの神秘神学は、むしろキリストの神秘に大きく依存しているのである。Aloysius Lieskeの研究は、この点を明らかにした(Die Theologie der Logos-mystik bei Origenes, Münster, 1938)。このことは、Hans Urs von Balthasar の素早くしかし深遠な粗描からも浮かび上がってくる(Le Mysterion d’Origène dans Recherches, t.XXVI et XXVII, 1936-1937)。他の研究書、特にカディユ(Cadiou)やバルディ(Bardy)、ダニエル(Daniélou)のそれも、同じくそのことを明らかにしている。オリゲネスは、何よりも教会の人であり、霊的な偉人なのである。彼は、最初の偉大なキリスト教神秘家であり、主知主義者であるばかりでなく霊的な人として、常に教会の懐の内にあったのである。ダニエルによれば、オリゲネスは、「キリストの証人」であり、「信仰とキリスト教共同体の生活との証人」であった。この霊的次元が知られるほど、オリゲネスの思想の内に占める聖書の霊的解釈の際立った地位が知られるようになるだろう。こうしてこそ、オリゲネスは真に理解されるのである。我々は、神のオリゲネス像を探るのに都合のいい時点に立っている。  

 オリゲネスの霊的解釈は、全的に、キリストの神秘に貫かれており、その本質においてまったくキリスト教的であり、伝統的である。この点を承知していた人たちは、カエサレアの司教テオクティストス、エルサレムの司教アレクサンドロス――両司教は、オリゲネスを司祭に叙階し、説教をさせた――、そしてオリゲネスの弟子グレゴリオス・タウマトゥルゴス、アレクサンドリアのディオニュシオス、カエサレアのフィルミリオス、およびラテン人・ギリシア人を問わず、アタナシオス、ディデュモス、バシレイオス(ただし若干の留保を付けて)、ナジアンゾスのグレゴリオス、エルサレムのヨハネ、ヨハネ・クリュソストモス、ヒラリウス、アンブロシウスなどがいる。しかし我々は、オリゲネスの講義を聞き、彼と親しく語り合い、いわば彼の魂の刻印を受けた直接の弟子たちの中でももっとも偉大な弟子から、彼らがオリゲネスをどのように考えていたかを聞いてみることにしよう。それはグレゴリオス・タウマトゥルゴスの言葉である

 この点に関しては、彼は何事にも注意を奪われないようにと勧告した。たとい万人が評判して最も賢明なりとする人でも、これに心を注がずして、ただただ神にのみ、またその預言者たちにのみ、注意を向けよと勧告した。かれは自らその聖書に多い晦渋難解の個所を説明解釈してくれた――神がそのような〔難解な〕方法で人と霊交せんとし給もうのは、神の御言が覆いなき裸のままで無資格の魂(世にかかる魂は多い)の中に入り込むこと避けんがためでもあろう。あるいはまた神の御言は元来すべて甚だ明瞭かつ単純なるものであるが、われわれの方が神から離れ、神に聞くことを忘れたため、時の経るに従い、不明瞭かつ晦渋と見えるようになったのでもあろうか。私にはよく断言し得ない――兎に角かれ自らは巧みに神の御言を聴きかつ解し得る能力を有し、謎の如き難解な個所も光をもって照らすようにこれを解説してくれた。あるいはもしその個所がそれ自体として難渋なものではない場合なら、もとよりこれを解するに何の苦もなかった。実に今の世の人の中、私自身が直接知りまた他の評判によって間接に聞いている限り、この人のみが、御神託の純き光をその魂に受け容れかつこれを他人に教える修練が出来ている。けだしそのすべての御神託の主なる神は、神の友なる預言者達にすべての預言と神秘の言とを宣りかつ授け給うのであるが、その如くまたこの人にも友としての栄を与え、これを神の代弁者に任じた給うたのである。他の人々によってはただ謎として語られる処をば、神はこの人によって〔明瞭な〕教えとなし、〔他の場合には〕ただ信ずべき最高の主体として厳かに命令しかつ単に宣言し給うだけのものを、この人にはその意味を探求し発見する能力を賦与し給うたのである。かくてもし心頑な、不信仰な、しかも好学心のある人間がかれに学ぶなら、理解と信仰とを得て神に従う決心をせざるを得なくなるのである。おもうにかれがかかる言を語り得るのはただ神霊の交感によるのである。何故なら、預言する者と、預言者に聴く者と、その能力は何れも一つでなければならぬ。またもし預言すると同じ御霊がその預言者の言を理解する力を与えないならば、人はその預言者を解することを得ない。聖書の中にも、鍵をかけた者はこれを開けることを得るが、然らざる者は何人もこれを開けることを得ないとの意の御言が示されている。実に神の御言は閉ざされたるものを開き、謎の如きものをば解き明かすのである。この最大の賜物をばこの人は神から受け、かつ天よりの最前の職分を、即ち神の言を人に解く通訳として、神の事を神の語り給う如くに理解し、これを人に人が聞き得るように説明するという職分を与えられているのである。(有賀鐡太郎訳)

 

 

・・・第2章・・・