1.ヒッポリュトスとオリゲネス

 初代教会の教父たちにとって、旧約聖書の諸文書の中で、『出エジプト記』の第十二章ほど、内容豊かな話題を提供してくれるものはなかったように思われる。実際、ここに訳出した講話を校訂したP.ノータンがいうように、「キリスト者にとって、旧約の過越を説明することは、小羊がその予型となっていたあがない主たるキリストについて語ることであり、ヘブライ人たちが自分たちの家の門に塗った血の塗布によって予告された洗礼について語ることであり、私たちの過越の食事たる聖体祭儀について語ることなのである」。すなわち、『出エジプト記』の第十二章に書き記された過越の祭り規定を取り上げ、それをあながい主なるキリストとその救いの業に関連づけて解釈することは、まさにキリスト教の救いの秘義の本質部を取り扱うことを意味していた。しかしながら、『出エジプト記』の第十二章がこれほど重要な内容を持った文書でありながら、これを扱った初代教会の文献いわゆる過越文学・文献(littérature pascale)は、ほとんど現存していない。

 二世紀の過越文献としては、サルデスのメリトンやヒエラポリスのアポッリナリオス、エイレナイオス、教皇ヴィクトル、アレクサンドリアのクレメンスの論考があったことが知られている。しかしそれらのいずれも、わずかな断片しか残されていない。しかし三世紀の過越文献となると、不完全ではあるが、幾人かの著作家の作品の全貌が知られるようになった。それは、二十世紀前半にエジプトのトゥーラの古代採石場跡で発見されたオリゲネスの真作である『過越について』という論考と、同じく二十世紀後半に、聖ヒッポリュトスの論考に基づいて作成されたものと推定されるようになった『過越祭講話』である。とは言え、この後者の『過越祭講話』は、次の四世紀に作成されたもので、説教者の熱烈な信仰にあおられて、あまりにも感情的な要素が多く、論考が本来持つべき冷静さを欠くきらいがある。そして四世紀に入ると、過越文献はその数を増す。しかし、そのほとんどすべての講話の関心は、過越解釈によって聴衆の想像力をかきたてて、彼らの信仰を高めようとすることに置かれている。したがって四世紀の過越文献は、劇的で感動的なものが多い。しかしそれらの講話の中でも異彩を放っているのが、ここに訳出した伝聖クリュソストモスの三つの『過越祭講話』である。本講話は、ご一読してくださればすぐにおわかりになるように、その論調からして、講話というよりはむしろ論考にきわめて近い。それは、一切の虚飾と雄弁を排して、冷静そのものであり、その一つひとつの言説が補い合って一つの全体をなす教理書の趣を呈しているのである。その講話の様式は、有能な要理教育者が、洗礼志願者や信徒一般にやさしく語りかける明快でわかりやすい講義のごときものである。

 本講話に見られる過越解釈は、概して、オリゲネスに代表される過越解釈に従っている。そのかぎりで、本講話は、パスカをめぐるキリスト教的解釈の二大潮流の一つに属していると言える。もちろん、パスカをめぐるキリスト教的解釈の二大潮流とは、オリゲネスに代表される「パスカ=過越」解釈の伝統と、ヒッポリュトスに代表される「パスカ=受難」解釈の伝統のことである。なお、本講話の校訂者のノータンも言っていることであるが、私たち読者が、それらの伝承を通してキリスト教の信仰の神秘をいくらかでも真剣に学ぼうとする場合には、それら二つの解釈の伝統を対立的にのみ捉えてはならないだろう。たんに「宗教的探求」というよりも、「修道的探求」(zh,thsij avskhtiko,j)によって整えられ、信者の「信仰の感覚」(sensus fidei)によって受け入れられた両者の伝統は、キリストのあがないの秘義についての、互いに補い合う二つの合い異なる見取り図なのであり、キリストによって教会に託された「信仰の遺産」(depositum fidei)をパスカに関する独自の視点から、一つの教会の中で、表明したものに過ぎないのである。

 ここで、これらの二つの解釈の伝統の担い手たちを、ノータンの研究成果に基づいてまとめると、次のような系統図に表わすことができる。

 

パスカ

パスカ=受難

パスカ=過越

エイレナイオス アクィラ(七十人訳)
テルトゥリアヌス アレクサンドリアのピロン
ヒッポリュトス オリゲネス
伝オリゲネス テオドレトス
プレスキアのガウデンス アレクサンドリアのキュリロス
伝ヒッポリュトス 伝クリュソストモス
ガザのプロコピオス
カプアのヴィクトル

 

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