第一講話

 

第一の幻:「ウジヤが死んだ年のことである。私は主が、いと高き王座の上に座っているのを見た[1]」。

 

 

 ウジヤ王が生きている間は、預言者イザヤは幻を見ることができませんでした。なぜならウジヤは罪人であり、「主のみ前に悪とされることを行い[2]」、神の律法の意思に背いて振舞っていたからです。ウジヤ王は、「神殿と至聖所に入り込みました」。そしてそれが原因で「額に重い皮膚病を受け」、町の外に出て、汚れた人たちの仲間に数え入れられました[3]。私たちが神の幻を見ることができるようになるには、魂のそのような君主は死ななければなりません。確かに、「ウジヤが死んだ年のことである。私は主が、いと高き王座の上に座っているのを見た」という言葉は、無駄に書かれたのではないのです[4]。私たち一人ひとりの内にウジヤやファラオが生きている限り、私たちは、エジプトで労役に服しながら[5]、うめくことはありません。しかし、もしもウジヤとかファラオが死ぬならば、私たちはうめくことになるのです。それは、『出エジプト記』に書かれているとおりです。ウジヤが生きているならば、私たちは「神の栄光を見る[6]」ことはありません。しかし彼が死ねば、私たちは、見ることができます。ウジヤが死ねば、ただちに神の栄光を見るようになるでしょう。これはただひたすら、「私は彼によって王に立てられた」と言われるみ言葉が私たちの内に君臨するようになるためであって、怒りが君臨するようになるためではありません。実際、罪の王が存在します。使徒はそのことを知っていて、次のように言っています。「ですから罪が、あなた方の身体に君臨してはなりません[7]」と。罪が君臨している人、このような王にみずからを委ねて、神の国をないがしろにし、情欲に服従している人は、哀れです。それゆえ情欲を愛する人は、神を愛する人ではありません。そして使徒は、このような人たちについて、「彼らは、神よりも情欲を愛している[8]」と言っています。しかしながらこれは、まったく信仰のない人たちについて言われているのではありません。それは、心の底で「神よりも情欲を愛して生活する人、信心を装いながら、その徳を否定している[9]」人について言われているのです。それゆえ、ウジヤ王の死によって、彼の死後に、預言者は幻を見たと言っているのです[10]。ところでこの幻は、何でしょうか。「私は主が、いと高く上げられた王座の上に座っているのを見た[11]」とあります。主を見るすべての人が、主がいと高く上げられた王座の上に座っているのを見るのではありません。私は、別の預言者が主を見て、しかも王座の上に座っているのを見たのを知っています。しかしその預言者は、「いと高き王座の上」にも「高く上げられた王座の上」にも座っているのを見てはいません。ダニエルは、(王宮の白壁に書かれた)文字を解釈しながら[12]、こう言っています。「諸々の王座が据えられた[13]」と。しかしその王座は「いと高き王座」ではありませんでした。そして「私は来て、民を裁くために、ヨシャファトの谷に座る[14]」とあります。ですからここでは、主は、谷に座ります。しかも裁くために、断罪するために谷に座るのです。しかし「主がいと高く上げられた王座の上に座っているのを見る」ことは別物です。『ミカ書』には、「神は(その住まいを)出て、降りられる[15]」とあります。また主は、ソドムを見るために「降ります」。「私は降って行って、私に届いた彼らの叫びの通りかどうかを見てみよう[16]」と言っています。したがって神は、その経綸の品位に応じて、ある時は上方で、またある時は下方で見られるのです[17]。このような意味でイザヤは、「主が、いと高く上げられた王座の上に座っているのを見た[18]」と言っているのです。もしも私が、ここにいる人たちに君臨する神を見るならば、私は、「いと高く上げられた王座の上に座っている」神を見ません。しかしもしも私が、天の諸々の霊的な存在者に君臨する神を見るならば、私は、「いと高く上げられた王座の上に」神を見るのです。天の諸々の霊的な存在者と私は言いましたが、これは何でしょうか。「王座の霊、支配の霊、主権の霊、権威の霊[19]」が、天の諸々の霊的な存在者です。私が(いと高く上げられた王座の上に座っている)主を見るとすれば、主は、このような意味でそれらの霊的存在者に君臨するでしょう。こう言われています。「私は、主がいと高く上げられた王座の上に座っているのを見た」と。「そして神殿は、主の栄光に満ちていた[20]」とあります。主の王座が高く上げられているのですから、その神殿も主の栄光に満ちています。しかし地上にある神殿が栄光に満ちているとは、私は思いません。「地とそこに満ちるものは、主のものである[21]」と言われています。しかし主の栄光の充満を、あなたは今、見出すことはないでしょう。しかしもしも誰かが、主の神殿を建設したならば、神の栄光は見られるでしょう。そしてその人が(主の神殿を建設せよと)言われたことを守るなら、神の栄光に満ちた神殿が見られるでしょう。しかし私は、現在このようにして、主の神殿が栄光に満たされるのかどうか知りません。『レビ記』では、今のところは実現しませんが、惜しみなく与える神に信頼しつつ、『レビ記』の個所を合わせ読んでみましょう[22]。すなわちそこでは、主は、主の栄光が見られるようになるために、あることが行われるように命じているのです[23]。もしもこれらのことが行われないならば、神の栄光は決して現れないでしょう。ともかく目下の朗読によって、私たちは以上のことを理解します。



[1] Is.6,1.

[2] Cf.2R.13,2.

[3] Cf.2Ch.26,16s.

[4] Is.6,1; cf. Orig.Hom.Jdt.1,1: in diebus Achaz regis iniqui … non potuit Esaias videre visum ... sed ex quo mortuus est rex nequam, cuius erant dies mali, tunc potuit propheta videre visionem Dei.

[5] Cf.Ex.2,23.

[6] Cf.Ex.16,7.

[7] Rm.6,12.

[8] 2Tm.3,4.

[9] 2Tm.3,4.5.

[10] Cf.1,1; 6,1.

[11] Is.6,1.

[12] Cf.Dn.5,5s.

[13] Dn.7,9.

[14] Cf.Jl.4,12; cf. Hom.Nb.12,2: in valle peccati.

[15] Mi.1,3.

[16] Gn.18,21.

[17] Cf.Hom.Gn.4,5: sed et cum descendit (Dominus), aliis deorsum est, aliis vero adscendit et sursum est ... illis, quos de mysteriis regnii caelorum docet, sursum est, turbis ... deorsum est.

[18] Is.6,1.

[19] Col.1,16.

[20] Is.6,1.

[21] Ps.23 (24),1.

[22] Deo autem largiente legetur in collecta, quae sequitur, quia …

[23] Cf.Lv.9,6.

 

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