第二講話

 

 

 

「見よ、乙女がその胎内に身ごもった[1]

 

 

 いま朗読されたことに関して申し上げますと、「深い深淵の方といと高き方にしるしを求めよ[2]」という命令がアハズに臨んだとき、彼は、慎み深く振舞いました。そしてアハズは、しるしを求めたくない理由を挙げています。彼は言います。「わたしは求めない。また主を試すようなことをしない[3]」と。しかし彼は、この慎みにもかかわらず責められ、こう言われています。「ダビデの家よ、あなた方は今、聞け。あなた方は、人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りないのか。どうして主にもどかしい思いをさせるのか[4]」と。そして次の約束が語られます。「それゆえ主がみずから、あなた方にしるしを与えられる。見よ、乙女がその胎内に身ごもって、男の子を産む。そしてあなたは、その子の名をインマヌエルを呼ぶ[5]」。これらの言葉を説明しなければなりません。また他の言葉と同様にこれらの言葉に関しても、私たちは明快に説明できるように神の恵みを必要としているように思われます。アハズは、単に「しるしを求めよ」を命じられているのではありません。彼は、「自分自身のためにしるしを求めよと」命じられています。実際、(主の)み言葉は次のように言っています。「お前は、自分自身のためにあなたの神・主から、深い深淵の方といと高き方にしるしを求めよ[6]」。私の主イエス・キリストがしるしとして提示されています。実際これが、(彼が)自分自身のために深い深遠といと高きところに求めるように命じられているしるしです。「深い深淵の方に」と言われているのは、「下っ方が(イエスご自身だ)だからであり、「いと高き方に」と言われているのは、「すべての天を越えて昇っていかれた方がイエスご自身だ」からです[7]。しかし「深い深淵の方といと高き方に」私の主イエス・キリストとしてのこのようなしるしが私に対して示されることは、もしもその方の「深淵」と「いと高きこと」についての神秘が私に与えられていないとすれば、何の利益もないでしょう。すなわち私が、キリスト・イエスに関する「深淵」と「いと高きこと」についての神秘を受け取ったとき、わたしは、主の指図に従ってしるしを受け取るでしょう。そして私に対して、あたかも私が私自身の内に「深い深淵の方といと高き方に」あるしるしを持っているかのように、次の言葉が語られることでしょう。「あなたは心の中で、誰が天に昇ったと言ってはなりません。それはキリストを(天から)引き離すことになります。また誰が深淵に下っていったかと言ってはなりません。それはキリストを引き戻すことになります。あなたのみ言葉は、すぐ近くにあり、あなたの口、あなたの心の中にある[8]」と。ですから私たちは皆、主なる神が「深い深淵の方といと高き方に」与えられたしるしが有益なものとなるよう、このしるしを私たち自身のために求めるように命じられているのです。ところで、もしも誰かが理性的な考察をめぐらすことができるとすれば、その人は、「深い深淵の方といと高き方に」と言われていることを理解することができるでしょう。この言葉は、選言的に言われたものではありません。実際、この言葉は、(深い深淵といと高きところの)両者のそれぞれ可能であることを示しているのです。「あなた自身が、あなたのために主から、深い深淵の方といと高き方にしるしを求めよ[9]」とあります。しかも使徒は、その約束において「私たちが、(このキリストの愛の)深淵さ、崇高さ、広さ、長さがどれほどのものであるかを理解することができますように」と言っています。「そしてアハズは『わたしは求めません』言った[10]」とあります。アハズは、不信仰でした。なぜなら(主は)「あなた自身があなたのために(しるしを)求めよ」と言っているからです。ところが民は、今日に至るまで、しるしを求めませんでした。それゆえ民は、そのしるしを持たず、「主にもどかしい思いをさせている[11]」のです。彼らは、私の主イエス・キリストを受け入れっていない民です。次に別の問いかけが続きます。すなわちアハズは、「私は求めない。私は主を試さない[12]」と言って、「しるしを求める」ことが試みなると考えていましたが、主は彼に対してこう言っています。「ダビデの家よ、あなた方は今、聞け。あなた方は、人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りないのか。どうして主にもどかしい思いをさせるのか[13]」と。しかし「深い深遠やいと高き方にしるしを求める」人は、主にもどかしい思いをさせませんし、人々にももどかしい思いをさせないと、私は思います。実に神にもどかしい思いをさせるのは、いかにして人間を救うかということなのです。ですから、救いを求めて避難する人は、神にもどかしい思いをさせません。むしろ人間を救おうというもどかしい思いを神に与えて、救いから逃げ、主から遠く離れる人が主にもどかしい思いをさせるのです。「それゆえ主がみずから、あなた方にしるしを与えられる。見よ、乙女がその胎内に身ごもって、男の子を産む。そしてあなたは、その子の名をインマヌエルと呼ぶ[14]」とあります。この預言の諸々の写本は、一致して「あなたは呼ぶ」と言っています[15]。さらに『マタイによる福音』では、「そして彼らは、その子の名をインマヌエルと呼ぶ[16]」と読めることを、私たちは知ってまいす。私たちは、預言について軽率な扱いをすべきだと言うことはできません。ではどうして福音書は、このような読みをしているのでしょうか。この預言の言葉は、他の多くの箇所においてと同じように、無理解で安きに走る人によって作られたものでしょうか。それともおそらくある人が言うように、初めから(来るべき)福音(の預言)として表明されたものでしょうか。興味のある人は、考察して見るべきでしょう。確かに預言は、「そしてあなたは、その子の名をインマヌエルと呼ぶ」と明白に言っているのです。私は、「そしてあなたは、その子の名をインマヌエルと呼ぶ」という言葉を読んだある人が次のように自問していたのを知っています。すなわち「あなたが呼ぶ」とはどういうことか、誰が「呼ぶ」のかと。もちろんそれは、アハズです。そしてどのようにしてアハズは、多くの世代の後に訪れた救い主について、「あなたは、その子の名をインマヌエルと呼ぶ」という言葉を聞くことができたのか。しかも「あなたは呼ぶ」という言葉があるのに、どうして「彼らは呼ぶ」と(アハズは)書くことができたのかと。しかし「あなたはその子の名をインマヌエルと呼ぶ」という言葉がアハズに言われたものではなく、「ダビデの家」に言われているのをお考えください。明らかに次のように言われているのをお考えください。すなわち「ダビデの家よ、あなた方は今、聞け。あなた方は、人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りないのか。どうして主にもどかしい思いをさせるのか。それゆえ主がみずから、あなた方にしるしを与えられる。見よ、乙女がその胎内に身ごもって、男の子を産む。そしてあなたは、その子の名をインマヌエルと呼ぶ[17]」と。もしも我々が、このように、いま言われたことを理解できないのからといって、(この預言について)軽率な扱いをすべきでは決してありませんし、安きに走るべきではあません。むしろ私たちは、神の恵みが知識の照明によって私たちにこの問題の説明を与えてくださるように、あるいはさらに神の恵みが、神が望む人を通して私たちを照らし、もはやこの問題を問うことなく、私たちの問題が解決されるように願いましょう。ともあれ、もしも私たちが主によって理解を得るに相応しいと認められますなら、主はすぐに私たちの願いに応えてくださるでしょう。さて、「ダビデの家」とは何でしょうか。私たちがしばしば証明しましたように、ダビデがもしもキリストなら[18]、「ダビデの家」は、私たち、神の教会です。そして教会である私たちに対して、上述のもどかしい思いを主にさせることなく、主の許しに基づいてあのしるしを受け取るように言われているのです。それらのことが言われるのは、「ダビデの家」ではなく、他ならぬ私たちです。もしも誰かが「ダビデの家」であるなら、その人は「その子の名をインマヌエルと呼ぶ」と預言されています。実際、キリストの来臨の際に、ただ私たちの教会だけがキリストについて、「神は私たちとともに[19]」と言っているのです。神の恵みのもとに以上のことを説明しましたので、私たちは、別の謎を探求することに致しましょう。



[1] Is.7,14.

[2] Is.7,11.

[3] Is.7,12.

[4] Is.7,13.

[5] Is.7,14.

[6] Is.7,11.

[7] Cf.Jn.6,33; Ep.4,10.

[8] Cf.Rm.10,6-8.

[9] Is.7,11.

[10] Is.7,12.

[11] Is.7,13.

[12] Is.7,13.

[13] Is.7,13.

[14] Is.7,14.

[15] Veritas exemplariorum prophetae huius dicit : >vocabis<. Cf.Euseb.in Jes. XXIV, 137 AM.

[16] Mt.1,23.

[17] Is.7,13-14.

[18] Cf.Comm.Jn.1,23:kalei/tai de. kai. Dabi.d o` Cristo,j

[19] Cf.Mt.1,35.

 

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