第三講話

 

 

 

「七人の女[1]」。

 

 

 「七人の女」は、恥を忍び、「自分たちの恥を取り除く」ことのできる人を探し求めて、歩き回っています。これらの七人の女たちは、約束します。「自分のパンを食べ、自分の服を着ますから[2]」と。彼女たちは、自分たちの恥を取り除いてくれる人のパンを食べる必要はありません。自分たちが捉えた男の服を必要とはしません。彼女たちは、男が与えることができる服よりも善い服を持っています。彼女たちは、男の調理が惜しみなく与えることのできるものよりもすばらしい食物を持っています。したがってこの七人の女たちが誰のものか、そして彼女たちの恥がどのようなものか考察する値打ちがあります。七人の女たちとは、一つです。すなわち彼女たちは、神の霊なのです[3]。そしてこの一つのものが七人の女なのです。なぜなら神の霊は、「知恵の霊、識別の霊、思慮の霊、勇気の霊、知識の霊、信心の霊、主を畏れ敬う霊[4]」だからです。この知恵が、みずからに逆らって立つ多くの知恵によって恥を忍んでいるのです。この真の識別が、諸々の偽りの識別によって恥を耐えています。この偉大な思慮が、善いものとはいえない多くの思慮によって恥を受けています。この勇気が、みずからは勇気ではないのに勇気であると約束するものによって中傷されています。この知識が、自分の名前を偽る知識によって恥を忍んでいます。この信心が、みずからを信心であると言いながら不信心であり不敬虔な者たちを指導する信心によって罵られています。この畏怖が、みずからを畏怖であると思っているものによって恥を忍んでいます。実際、多くの人たちが神的な畏れを表明いたしますが、「知識をもって畏れているわけではないのです[5]」。ではどうしてこれらの七人は、恥を忍んでいるのでしょうか。私たちは考察して見ましょう。「この代の知恵」をお考えください。「この世の支配者たちの知恵[6]」をお考えください。どのようにしてこれらの知恵が私のキリストの知恵を非難しているのでしょうか、どのようにしてそれらの知恵は、真のユダヤ人の知恵を非難しているのでしょうか――私たちは、霊的に割礼を受けています、他方、彼ら(実際のユダヤ人たち)(肉に)割礼を受けています――。こうしたあなたは、どのようにして「この代の知恵とこの世の君たちの知恵」が罵りの声を挙げているかを理解してください。そしてそれゆえに、これらの霊的な知恵である女たちとともにいて、これらの知恵の恥を取り除いてくれる男が求められているのです。彼女たちの恥を取り除く男は、厳密な意味で一人です。ではこの男は誰でしょうか。それは、肉によれば「エッサイの根から出た[7]」イエス、「肉によればダビデの種から生まれ、義化の霊によれば力において神のことあらかじめ定められた[8]」イエスなのです。たしかに「エッサイの根から若枝が出ました[9]」。この若枝は、「すべての被造物に先立って生まれた方」ではありません。この若枝は、「元に神とともにあった神であるみ言葉[10]」ではありません。むしろそれは、「肉に従って生まれた」エッサイの根の若枝です。こうして「エッサイの根から若枝が出て、その根から花が上ります[11]」。この花は何でしょうか。そしてこの根は何でしょうか。両者は、その実態において一つです。しかしその外部への働きにおいて異なるのです[12]。すなわちもしもあなたが罪人であれば、イエスは、あなたにとって花でもなく、またあなたも「エッサイの根から出た花」を見ることはないでしょう。実にあなたには、若枝が来るでしょう。なぜなら若枝と花の弟子のことが語られているからです。若枝について(パウロは)こう言っています。「あなたは何をお望みですか。私が、若枝としてあなたの許に行くことですか」と。さらに花について「それとも(私は)神の愛と柔和の霊の内に(あなたの許に行くことですか)[13]」と。ですから諸々の罰を必要としている人に対して、「エッサイの根から若枝が出ました」。譴責を必要としている人に対して、若枝が出ました。非難されることが必要な人に対して、若枝が出ました。他方、既に教育を受けていて、厳しい矯正を必要とせず、あるいは罰を必要とせず、完全な実を結ぶために既に開花する能力を持っている人に対して、花は上ります。実に最初に花が現れます。次に花の後で、若枝が実を結ぶようになるのです。「エッサイの根から若枝が出て、その根から花が上りました。そして七人の女が留まります。神の霊、知恵と識別の霊がその花の上に留まる[14]」のです。実際、知恵の霊は、モーセには留まりませんでした。知恵の霊は、ヌンの子ヨシュアには留まりませんでした。知恵の霊は、イザヤやエレミアといった一人ひとりの預言者に留まることはありませんでした[15]



[1] Is.4,1.

[2] Is.4,1.

[3] Cf.Is.11,2.

[4] Cf.Is.11,2.3.

[5] Cf.Rm.10,2.

[6] Cf.1Co.2,6.

[7] Cf.Is.1,1.

[8] Cf.Rm.1,3.4.

[9] Is.1,1.

[10] Cf.Jn.1,1.

[11] Cf.Is.1,1.

[12] Ambo enim unum in ipso subiacenti; differentia autem est negotiorum; cf.Orig.Hom.Nb.9,9: quamvis enim unum sit Christus per substantiam, singulis tamen diversus efficitur … qui verberibus indiget, exit ad eum virga; qui autem proficit ad iustitiam, adscendit ei in florem.

[13] 1Co.4,21.

[14] Cf.Is.11,2; 4,1.

[15] Cf.Orig.Hom.Nb.6,3: in omnibus ergo, qui prophetaverunt requievit Spiritus sanctus nec tamen in aliquo ipsorum ita requievit sicut Salvatore. Propter quod et scriptum est de eo quia <... et ewquiescet super eum spiritus Dei, spiritus sapientiae et intellectus ...> ... vide quia supra nullum alium spiritus Dei requievisse septemplici hac virtute describitur.

 

 

次へ