第五講話

「東から正義を上らせたのは誰か[1]」および幻視について

 

 

 預言者は、正義が存在し、しかも生きていると言っています。また私たちは、使徒だけが次のように言っていたのを考察したことがあります。すなわち「キリストは、正義であり、聖化であり、贖いであり、知恵である[2]」と。しかし使徒も預言者に教えられて、正義は生きものであり、生きていると知ったのでしょう。ではこの正義は何でしょうか。それは、「神である独り子[3]」です。ところでキリストが正義であり、実在し生きている正義であることはパウロから始まったのではなく、かえってパウロが預言の言葉からこの神秘を見出して私たちに提示したことは、目下の朗読が立ち止まっているこの章によって確実です。さて預言者は言っています。「誰が日の昇る東から正義を立ち上がらせ、それを自分の足元に呼んだのか[4]」。(主は)正義を呼ばれました。そして呼び出された正義が歩くとすれば、それが生きものであることは明らかです。ところでおん父は、キリストを呼ばれました。なぜならキリストが、私たちの救いのために、私たちのところに歩みを進め、天から私たちのところに降りてこられたからです。「実際、天から降りてきた人の子の他に、天に昇ったものはだれもおりません[5]」。おん父は、キリストを日の昇るところから呼びましたが、それは感覚的な東ではありません。おん父は、真の東の上るところから呼ばれました。そういうわけで聖書には、こう書かれているのです。「誰が日の昇る東から正義を立ち上がらせ、それを自分の足元に呼んだのか[6]」と。おん父は、おん子を呼びました。いな、真実を申せは、神は人間を呼んだのです。神は、正義をご自分の足元に呼んだとあります。それはすなわち神がご自分の子の受肉におん子を呼び招いたのです。それゆえ「私たちは、その方の足台を伏し拝みます」。それは聖書に次のように書かれている通りです。「あなた方は、主の足台を伏し拝め。主は聖なる方だから[7]」であり、実に肉が主の神性の誉れを受けたからだと。ともあれ朗読の始めの個所は、より高度な説明を必要としていますから、私たちは、呼び出されたが過ぎ去ってしまったみ言葉がもう一度私たちのところに戻ってきて、私たちが僅かなことであっても私たちの力の限りを尽くして解明できるように、至高の王に祈りましょう。



[1] Is.41,2.

[2] Cf.1Co.1,30.

[3] Cf.Jn.3,18.

[4] Is.41,2.

[5] Jn.3,13.

[6] Is.41,2.

[7] Ps.98 (99),5.

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