第六講話

「私は誰を遣わそう[1]」から「そして彼らは回心し、私は彼らを癒す[2]」までについて。

 

 イザヤは、「いと高く上げられた玉座に万軍の主が座っているのを見ました」が、さらにセラフィムが主の周りに立ち、罪人たちの免者を受け入れ、祭壇から取ってこられた火によってその唇に触れて清めたのを見ました[3]。そして彼は、主が命令するかのようにではなく、けしかけるかのようにこう言うのを聞いたと言っています。「私は誰を遣わそうか。そして誰がこの民のところに行くだろうか[4]」と。そして彼は、主にこう応えたと言っています。「ご覧ください。私がおります。私をお遣わしください[5]」。この個所に来て、書かれていることを詳細に検討してみると、モーセが行ったことと、イザヤが行ったことととはそれぞれ異なっているのを、私は見出します。実際、モーセは、エジプトの地から民を導き出すために選ばれましたが、彼は、「誰か他の人を見つけて、その人をお遣わしください[6]」と言って、主に反対しているように見えます。これに対して、イザヤは選び出されていませんが、「私は誰を遣わそうか。そして誰が行くだろうか」と言う言葉を聞いて、「ご覧ください。私がおります。私をお遣わしください」と言っています。そこで「霊的なものを霊的なものと比較して[7]」、この二人の内で誰がより善いことを行ったかを探求するのは値打ちがあります。すなわちモーセは、選び出された後で(主の申し出を)断りました。他方イザヤは、選び出されてはおりませんが、民に遣わしてもらうようにみずから進み出ています。この二人の内に見出される事柄の矛盾対立を見て、いったい誰が、モーセはイザヤが行ったのと同じことを行ったと言うことができるのか、私にはわかりません。それで私は、あえてこの二人の聖にして幸いな男たちを比較して、識別し、モーセの方がイザヤよりも控え目に振る舞ったと申し上げましょう。実際モーセは、民の先頭に立って、彼らをエジプトの地から導き出し、エジプト人たちの「魔術と呪い[8]」を斥けることは、途方もないことだと考えていました。それで彼は、「誰か他の人を見つけて、その人をお遣わしください[9]」と言ったのです。これに対してイザヤの方は、たとえ彼が選び出されていたとしても、自分がどのようなことを(民に)言うように命令されているのか予期していなかったので、彼は、「ご覧ください。私がおります。私をお遣わしください[10]」と言ったのです。それゆえ彼は、何が命令されるのか知らず、「ご覧ください。私がおります。私をお遣わしください」と言ったので、言うように命じられた当の本人には望ましくないことを言うように命じられました。あるいはもしかすると、呪いの言葉から言い始めるのは、直ちに預言するように命じられた本人とって望ましくないことではなかったのかもしれません。すなわち「あなた方は、耳で聞いても理解しないだろう。あなた方は見て識別しようとしても、見ないだろう。なぜならこの民の心は頑なになったからだ[11]」云々と。ですからおそらく――しかし敢えて言ってよろしければ――彼は、預言したくなかったことを語るように命じられるという、無鉄砲さと大胆さという報いを得たのでしょう。しかし私たちは、イザヤとモーセを比較しましたから、今度はイザヤとヨナの綿密な比較を行ってみましょう。あのヨナは、「三日」後にニネベの転覆を預言するために遣わされましたが[12]、彼は、(ニネベの)町の諸々の悪の裁きを望まず前進するのをためらいました。他方、イザヤは、どんなことを言うように命じられているのか予期していませんでしたから、「ご覧ください。私がおります。私をお遣わしください」と言っています。諸々の権威や主権、教会のもろもろの奉仕職といった神に由来する物に突進しないのはよいことです。とにかく私たちは、モーセを見習って、彼とともに「誰か他の人を見つけて、その人をお遣わしください[13]」と言うことができるようにしましょう。なぜなら救われたいと願う人は、その人が指導的立場にあっても、教会の統治には進まず、まさに福音の立場に立って言わなければならないとすれば、かえって奉仕に進むからです。福音にはこう書かれています。「諸国の民の君主たちは彼らに君臨し、彼らの間で権能をもつ者たちは役人と呼ばれている。しかしあなた方の間では、こうあってはならない[14]」。また「あなた方の間で君主たちが支配してはなりません」。かえって「あなた方の内で偉くなりたい人は、皆の内でもっとも小さな者になりなさい[15]」。「第一の者になりたい人は、皆の内でいちばん最後の者になりなさい[16]」。ですから司教職に呼ばれている人は、主権に呼ばれているのではなく、教会全体の奉仕に呼ばれているのです。もしもあなたが、教会の中では指導的立場にある人はすべての人の僕であることを聖書に基づいて信じたいのであれば、救い主ご自身があなたにこう勧めるでしょう。すなわちこのように偉大な人は、「弟子たちのただ中で賓客のようになるのではなく、仕える人になる[17]」と。実際(イエス)、「上着を脱いだ後、亜麻布を取り、それを腰に巻きつけて、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い、腰に巻きつけていた亜麻布でその足を拭き始めらました[18]」。そして人の先頭に立つ者たちはこのような僕でなければならないとお教えになって、こう言われているのです。「あなた方は、私を先生とか主と呼んでいる。それは正しい。私はそうである。だからもしも主であり先生である私が、あなた方の足を洗ったのなら、あなた方も互いの足を洗わなければならない[19]」。ですから教会の長は奉仕に招かれています。それは、彼が奉仕から天の座に向かうことができるようになるためです。それは、聖書に書かれている通りです。「あなた方は十二の座について、イスラエルの十二の部族を裁くだろう[20]」と。さらにあの非常に傑出した人物であるパウロが次のように言っているのを、あなたはお聞きください。「実際、私は、使徒の中でももっと小さい者です。私は、使徒と呼ばれる資格はありません。なぜなら私は、神の教会を迫害したからです[21]」とあります。またこのことが彼の奉仕を肯定しているのではなく、彼の卑下だけを肯定しているように見えるのなら、彼が次のように言うのを、あなたはお聞きください。「私たちは、キリストの使徒として権威ある人になることもできたのですが、私たちは、あなた方のただ間で、乳母が慈しむような子どもになりました[22]」。ですから私たちは、主ご自身の謙虚なみ言葉や主の使徒たちの行ないの模倣者となるのは、有益なことです。そしてモーセによってなされたことを行うことは、有益なことです。すなわち、たとえ誰かが主権に呼ばれるとしても、その人は、「誰か他の人を見つけて、その人をお遣わしください[23]」と言うべきでしょう。モーセは神に言っています。「私は、前々から相応しくありません。私の声は貧弱で、舌は思いです[24]」と。ところがモーセが「私の声は貧弱で、舌は重いです[25]」と神に謙虚に言うと、神から次の言葉を聞きます。「誰が人間に口を与えたのか。誰が(人の)耳を聞こえないようにし、口の聞けないようにし、見えるようにし、見えないようにしたのか。私、主なる神ではなかったか[26]」。あなたは、神を信じてください。そして神にご自身を奉献してください。あなたの声がか細く、舌も重くても、神のみ言葉にご自身を委ねてください。そしてその後こう言ってください。「私は、私の口を開き、息を引き寄せました[27]」と。以上は、イザヤが言った言葉、すなわち「ご覧ください。私がおります。私をお遣わしください」という言葉に関連して述べてみました。



[1] Is.6,8.

[2] Is.6,10.

[3] Cf.Is.6,1s.

[4] Is.6,8.

[5] Is.6,8.

[6] Ex.4,13.

[7] Cf.1Co.2,13.

[8] Cf.Ex.7,22.

[9] Ex.4,13.

[10] Is.6,8.

[11] Is.6,9.10.

[12] Cf.Jon.3,3; 1,1.

[13] Ex.4,13.

[14] Cf.Lc.22,25.26.

[15] Cf.Mc.9,35; Lc.22,26.27.

[16] Cf.Mt.19,30.

[17] Cf.Mc.9,35; Lc.22,26.27.

[18] Cf.Jn.14,4s.

[19] Jn.13,13s.

[20] Mt.19,28.

[21] 1Co.15,9.

[22] Cf.1Th.2,6,7.

[23] Ex.4,13.

[24] Ex.4,10.

[25] Ex.4,10.

[26] Ex.4,11.

[27] Ps.118(119),131.

 

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