第七講話

 

「見よ、私と、神が私に与えてくださった私の子どもらは」云々と書かれていることについて。

 

 「知恵ある人に機会を与えよ。そうすれば彼は知恵を増す[1]」と神の言葉は言っています。ところで至聖なる使徒たちは預言の言葉を理解するための機会を受け取っていますから、私たちは、諸々の預言を説明するために、使徒たちの機会を通して知恵を受け取り知恵を増す者になることができるよう、神に祈りましょう。使徒(パウロ)は、「見よ、私と、神が私に与えてくださった子供たち[2]」という言葉を思い起こしながら、この言葉から次のような考えを引き出しています。すなわち「子供たちが血と肉を共有していますから、彼ご自身も、これらのものに参与している者たちと同じようになりました。それは、死の支配権を持っている者、すなわち、悪魔を、(ご自分の)死によって滅ぼし、死の恐怖によって、生涯、奴隷の状態にあったすべての人たちを解放するためでした[3]」と言っています。したがって子供たちが血と肉に参与しているので、私たちの救い主も、血と肉を共有したのです。もちろん血と肉を共有することは、救い主の本性や神性とは無縁でした。しかし救い主は、私たちのために、ご自分とは無縁のものを受け取りました。それは、罪のために無縁となっていた私たちを、ご自身と復縁させるためだったのです。実に使徒は、このような意味で解釈して「子供たちが血と肉を共有していますから、彼ご自身も、これらのものに参与している者たちと同じようになりました[4]」言ったのです。しかし私は、こう申し上げたいです。すなわち、「子供たちが血と肉を共有しているため、(救い主)ご自身もそれらに参与する者たちと同じようになった」のと同じように、子供たちは(神の)力強い言葉を聞くことができません――すなわち彼らは、子どもとして神のみ言葉を聞かなければなりません――。それゆえ救い主は、肉と血を共有する子供たちのために、子供たちの血の中に生まれました。そして子供たちに語りかけるように語り、神的なことや言語を絶したことは語らず、子供たちが把握できることだけを語りました。しかし、もしもあなたが人間をみ言葉の完全性と比べるなら、すべての人が子どもです。あなたがモーセの名を挙げても、預言者の一人について語っても、「女たちから生まれた者の内で彼にまさるものは誰もいなかった[5]」と言われるヨハネについて語っても、あるいはあなたが人たちの許に向かっても、たとえば「黄泉の門も勝つことはできない[6]」とされるペトロや、「第三天まで連れ去られ、言いようのない言葉を聞いた[7]」パウロの許に向かっても、あなたはこれらの人たちの栄誉を損なうことなく、こう言うでしょう。すなわち、彼らもまた、自分たちが理解した事柄において、理解しなかった事柄に比べると、人々に伝えられる事柄を子供たちの養育を通して教えられたと。ですから救い主は、パウロがキリストにおいて子供たちと呼び、「乳を飲むべきであって、硬い食べ物を食べることのできない[8]」と主張する人々についてではなく、百羽一絡げにすべての人について、「見よ、私と、神が私に与えてくださった子供らは[9]」と言っているのです。とはいえ、子供たちの間でも、伝授された事柄を習得する機敏さや速さは違いがあるのと同じように、優秀な子供たちの間でも、たとえばモーセや預言者たち、さらには主イエス・キリストの使徒たちの間でも、同様だったのです。それゆえ彼らは、自分自身のことを知っていてたので――すなわち彼らは、たとえ進歩しても、子供たちのほどの前進しかしていなかったので――、こう言ったのです。「私たちの知るのは一部分、預言するのは一部分である[10]」と。実際、彼らは、依然として真理に属する事柄を見たことはなく、その事柄の影を見ていたのであり、十全な光を見ていたのではなく、おぼろげな象を見ていたのです。それで彼らは、再び次のように言ったのです。「実際、いま私たちは、鏡を通して、謎において見ています。しかしそのときには顔と顔を合わせて見ます[11]」と。この言葉を読む理解する人の誰が、知識や(神から与えられた)賜物について思い上がり高慢になるでしょうか。なぜなら子供のもとに来た事柄は、大人のために取って置かれた事柄よりもはるかに劣っているのですから、子供たちの間で明敏で機敏な才能があると思われている人々は、思い上がったり高慢になったりすべきではないのです。しかし救い主は、すべての人たちがそのような子供たちであることを、「見よ、私と、神が私に与えてくださった子どもらは[12]」と言って明らかにされたのです。もちろん救い主も、神から賜物を受け取りました。実際、救い主を遣わした方が、その救い主の許に来る人を引き寄せなかったなら、誰も救い主のところには来ないのです[13]。それは、『ヨハネによる福音』の中で私たちが学んだとおりです。そして救い主は、信じるに至った人たちをおん父から賜物として受け取ったので、彼らについて預言してこう言っているのです。「見よ、私と、神が私に与えてくださった子どもたちは[14]」と。(賜物を)与えた方ご自身が今でも(それを)持っているからといって、(賜物を)受け取ったが(それを)持っていなかったと考えられるべきではありません。



[1] Pr.9,9.

[2] Is.8,18.

[3] He.2,14.15.

[4] He.2,14.

[5] Cf.Mt.11,11.

[6] Cf.Mt.16,18.

[7] Cf.2Co.12,2.4.

[8] Cf.eg.1Co.3,1.2.

[9] Is.8,18.

[10] 1Co.13,9.

[11] 1Co.13,12.

[12] Is.8,18.

[13] Cf.Jn.6,44.

[14] Is.8,18.

 

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