12  「私はお前を諸々の民の預言者として立てた[1]」とあります。もしもあなたが、「お前を諸々の民の預言者として立てた」というこの言葉を、エレミアに関連付けて検討なさるなら、引き続く個所で、彼が「諸国のすべての民に」預言するように命じられているのにお気づきになるでしょう。たしかにこういう見出しがあります。「エレミアが諸国のすべての民に預言した言葉[2]」、「エラムに[3]」、「ダマスコに[4]」、「モアブに[5]」と。そして私たちは、「彼が諸国のすべての民に預言をした」という言葉が、「お前を諸々の民の預言者として立てた」という言葉と同様に、エレミアに対して言われていたことを知っているのであります。では、霊的な意味に取ればどうなるでしょうか。エレミアに関係する場合については、もう述べました。しかし救い主に関係するものとしますと、何を申し上げなければならないでしょうか。このお方は、本当に「諸国のすべての民に預言をなさいました」。事実、彼は、無数の働きをなさるお方ですが、また預言者でもあるのです。彼が「大祭司[6]」であるように、彼が救い主であるように、彼が医者であるように、彼は預言者でもあるのです。実際、モーセは、救い主について預言をしたとき、彼をたんなる預言者として扱ったのではありませんでした。まさに特別扱いをしてこう言っているのであります。「神である主は、<あなたがの>兄弟のなかから、あなた方のために、私のような預言者を立てる。あなた方は、彼の言うことを聞きなさい。万一その預言者の言うことを聞かない者がいれば、その者は民のなかから絶たれる[7]」と言っているのです。したがってこのお方は、まさしく諸々の民のために立てられた預言者であり、神から「その唇に恵みを注がれた」預言者なのです。それは彼が、そのおん体のうちに臨在していたときばかりでなく、力と霊において臨在する今においても[8]、諸国のすべての民に預言をなさるためであります。彼はこのようにして、諸国のすべての民からご自分の預言を実現し、人々を救いへと牽引していかれるのです。



[1] Jr.1,5.

[2] Jr.25,13.

[3] Jr.49,34.

[4] Jr.49,23.

[5] Jr.48,1.

[6] He.2,17 etc.

[7] Ac.3,22-23;Dt.18,15,19;Lv.23,29.

[8] Cf.Com.Mt.XIII,15 (GCS 40, p.216, 31) et M.Harl, Origène et la fonction révélatrice du Verbe incarné, Paris, 1958, p.207-208.

 

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