16  しかし神のみ言葉はこれらのことに、すなわち「根絶やし、破壊し、絶滅させるために[1]」というに留まってはおりません。私から卑しい言動が根絶やしにされ、邪悪な事柄が破壊されたとしても、根絶やしにされた代わりに、より善きものが植えられないとすれば、私にどんな利益があるのでしょう。それらのものの代わりにより際立ったものが再建されなかったとしたら、私にとってどんな利益があるのでしょうか。ですから神のみ言葉は、先ず「根絶やし、破壊し、絶滅す」ことを行い、それから「建設し、植える[2]」ことをしなければならないのです。その上私たちは、聖書のなかでは、言ってみれば陰惨に見える事柄が最初に名指された後で、喜ばしく思われることがいつも言われているのを知っています。たとえばこんな言葉があります。「私は殺し、そして生かす[3]」。<神は、私は生かす、そしてその後で殺すとは言ってはおりません>。たしかに神が生かしたものが、神によってあるいはその他の何らかものによって滅ぼされるということは、考えられないことであります。「私が殺し、そして生かす」のです。誰を「私は殺す」のでしょうか。裏切り者のパウロ、迫害者のパウロであります。「そして私は生かす」のです。それは、「パウロがイエス・キリストの使徒[4]」になるためです。異端に属する哀れな人たちが、もしもこれらのことを考えていたら、彼らが絶えず私たちを責め立てて、次のように言うこともなかったでしょう。すなわちあなたは、律法の神がどれほど冷酷で非人間的であるか[5]、そして神が、「私は殺し、そして生かす」と言ったのということを知っている、と。  

しかしあなたは聖書のなかに、死者の復活の約束が書かれているのを見たことがないのですか。あるいはあなたは、死者の復活がすでに各人において先取りされているのを知らないのですか。「私たちは洗礼によって」キリストと「ともに葬られ」、キリストとともに復活したのであります[6]

ですから神は、陰惨な言葉ではありますが、しかし、どうしても必要な言葉から始めるのです。たとえば「私は殺す」、そして殺してから「私は生かす。私は傷つけ、また [7]」というように。    「たしかに主は、愛する者を訓練し、子として受け入れるすべての者を鞭打たれる[8]」のであります。    まず神は、鞭打たれます。そしてその後で癒すのです。「神は、苦しめ、そして再び元に戻す[9]」のです。ここでも同様のことが言えるでしょう。「私は今日、お前を諸々の民と諸々の王国の上に立てた。根絶やし、滅ぼし、絶滅させ、そして建設し、植えるために[10]」。しかしまず最初に、あの卑しい言動が私たちから取り除彼ねばなりません。神は、劣悪な建物のある所に建設することはできないのです。「実際、義と不法とにどんな共通したところがあるのでしょうか。光と闇に、どんな結びつきがあるのでしょうか[11]」。土台から悪が根絶やしにされなければなりません。悪の建物が、私たちの魂から破壊し尽くされなければなりません。そしてその後で、み言葉が建設し、<植え>なければならないのです。実際私は、これ以外の意味で、(聖書に)書き記されたことを理解することができません。こう書き記されております。「見よ、私は、お前の口に私の言葉を授けた[12]」。このみ言葉は、何をするのでしょうか。「根絶やし、滅ぼし、絶滅させる」とあります。み言葉は、「諸々の民」を根絶やすのです。み言葉は、「諸々の王国」を滅ぼすのです。しかしみ言葉は、この現世的で物体的な諸王国を滅ぼすのではありません。あなたは、み言葉によって根絶やしにされるものを、み言葉によって滅ぼされるものを、根絶やしになるみ言葉にふさわしく、滅びをもたらすみ言葉にふさわしく理解しなければなりません。ですから、もしも神が、「主は大いなるみ力をもって、福音を宣べ伝える者たちに言葉を授けられる[13]」という言葉のとおり、(み力を)与えてくださるのであれば、(この私が)いま申し上げましたことのなかにも、み力が存在しているのではないでしょうか。不信仰や偽善、邪悪や不品行の類ものがあれば、それらを根絶やしにする力があるのではないでしょうか。偶像崇拝の社が心のどこかに建てられたなら、それを破壊する力が存在するのではないでしょうか。それは、あの建物が破壊された後で、神の神殿が建設されるためです[14]。それは、再建された神殿のなかに、神の栄光が見出されるためなのであります。もはや(淫行の行われたあの)「茂み[15]」は生じません。(神の植えられる)「植物[16]    神の楽園    が生じるのです。そこには、キリスト・イエスにおいて、神の神殿があるのであります。キリスト・イエスに、栄光と力が代々にありますように。アーメン[17]



[1] Jr.1,10.

[2] Jr.1,10;cf.Hom.Jos.XIII,3-4.

[3] Dt.32,39.

[4] 2 Co.1,1.

[5] Cf.Hom.Lc.XVI,4;C.Cels II,24;Com.Mt.XV,11.

[6] Rm.6,4;cf.Ep.2,6.

[7] Dt.32,39.

[8] He.12,6.

[9] Jb.5,18.

[10] Jr.1,10.

[11] 2 Co.6,14.

[12] Jr.1,9.

[13] Ps.67,12.

[14] 1 Co.3,16.

[15] Cf.Jr.3,6 et Hom.Jr.IV, 1.

[16] Mt.15,13.

[17] 1 P.4,11.

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