ところで私たちは、ある人たちがそれらの言葉をエレミアには過ぎるものと見なし、それらを私たちの救い主に適応しているのを知らないわけではありません。なるほど私がこれから引用する言葉の多くが、エレミアに適合するとともに、救い主にも適応しうるものであることを知っておかねばなりません。しかしエレミアに言われたことの若干は、この理論を妨げるものであることも知っておくべきでしょう。なぜなら多くの人々にとっては、それらの若干の言葉は、救い主に一致しえないからです。では、救い主に一致する言葉には、どのようなものがあるでしょうか。たとえばこう言われております。「私がお前を、誰のところに遣わそうとも、行って、私がお前に命じることをすべて余すところなく語りなさい。彼らを前にして恐れてはならない。私はお前とともにいて、お前を必ず救い出す、と主は言われる[1]」。これらの言葉は、まだはっきりと救い主に適応しているようには見えません。しかし続く言葉は明らかに、救い主に適応しているように思われます。すなわち、「そして主は、ご自分の手を私に伸ばし、私の口に触れられた。そして主は、私に言われた。『見よ、私は、お前の口に私の言葉を授けた。見よ、私は今日、お前を諸々の民と諸々の王国の上に立てた。根絶やし、絶滅させるために』と[2]」。エレミアは、どのような民を根絶やし、どのような王国を覆したのでしょうか。こう書かれています。「見よ、私は今日、お前を諸々の民と諸々の王国の上に立てた。根絶やし、絶滅させるために[3]」と。またエレミアは、「そして絶滅させるために[4]」という言葉で言われているように、「絶滅させるさせる」ために、一体どのような権能を持っていたのでしょうか。さらにエレミアには、「また建てるために[5]」と言われているほどですから、どれほど多くの人々を建てたのでしょうか。エレミアは、「私は役に立ったことがなく、また、誰も私に役立たなかった[6]」と言ってるのです。では、どうしてエレミアに、「建て、植えるために[7]」という言葉が与えられたのでしょうか。どうしてエレミアに、「植える」という言葉が適合するのでしょうか。それらの言葉は、しかし、救い主に適応されれば、解釈者を悩ませることはないのです。なぜならエレミアは、それらの言葉のなかで、救い主の象徴となっているからです。しかし次に引用する言葉は、それがどのような意味で救い主に適合できるかを示そうとすると、どん何聡明な人でも大いに心を悩ませてしまいます。こう言われております。「そして私は言った。支配者であられる主よ、ご覧ください。私は話す言葉を知りません[8]」。救い主は、知恵である方、神の力であるおん方[9]、神性の充満をご自身のうちに身体的に宿らせ、その充満を私たちにもたらしてくださったおん方であります[10]。とすれば、一体どうして「話す言葉を知りません」という言葉が、救い主に適合することができるのでしょうか。「私は若すぎます[11]」という言葉も、救い主に対しては禁止されていることでありましょう。なぜなら、そうすると救い主は立派に話せないということになってしまうからです。実際、主が、彼に、そんなことを「言ってはならない[12]」とおっしゃっているのであれば、この言葉が立派に話せないということを禁止しているのは、明らかでしょう。

  このように、これらの言葉は救い主には適合しませんが、先の言葉は、救い主に当てはめてみてみましても、(解釈者を)面食らわせるようなものには見えません。一方の言葉はエレミアに適合し、他方の言葉は救い主に適合すると言っても、さして難しいことではないでしょう。ところが良識のある人なら、きっとこの個所で大いに当惑してしまうことでありましょう。なぜならその人は、主が語られた数々の言葉を、それらの言葉の一貫した脈絡[13]を離れて、エレミアに対するものと救い主に対するものとに切断してしまうこと、そして、ある言葉はキリストにではなくエレミアに適合し、またある言葉はエレミアに過ぎるものであるから、エレミアにではなくキリストに適合すると言うことは、愚の骨頂であると考えるからです。そこで、すべてはエレミアに適合するということにいたしましょう。そしてエレミアには過ぎたように見えるそれらの言葉について、解釈を施すことにいたしましょう。



[1] Jr.1,7-8.

[2] Jr.1,9-10.

[3] Jr.1,10.

[4] Jr.1,10.

[5] Jr.1,10.

[6] Jr.15,10.

[7] Jr.1,10.

[8] Jr.1,6.

[9] Cf. 1 Co.1,24.

[10] Cf. Col.2,9.

[11] Jr.1,6.

[12] Jr.1,7.

[13] ei`rmo.j lo,gwn

 

 

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