(主は言われます)「『私は若い』と言ってはならない。なぜなら私がお前を誰のこところ遣わそうとも、お前は行かなければならないからである[1]」。こうして(主は)「手を伸ばし、彼の口に触れ、み言葉を彼に与えております。しかも「諸々の王国」のゆえに、彼にみ言葉を与えるのであります。それも「諸々の王国を根絶やすために[2]」。救い主は、「おん父のうちに[3]」いたときは、(諸々の王国を)根絶させる言葉を必要となさいませんでした。(諸々の王国を)滅ぼし、数々の邪悪を絶滅させる言葉を必要となさいませんでした。なぜなら、かのところには[4]、絶滅に値するものや根絶に値するものは、何もなかったからであります。

  ですから「私はお前たちを知らない。なぜならお前たちは、不法を働くものだからだ[5]」という言葉は、偉大な言葉なのです。同様に、「私は話す言葉を知りません[6]」という言葉も、救い主の栄光の圧倒的な偉大さのゆえに[7]、救い主によって言われたのです。それは、人間の話す言葉を知らないと言うことと同じ意味であります。

  



[1] Jr.1,7.

[2] Cf.Jr.1,9-10.

[3] Jn.14,10.

[4] 「かのところに」という言葉は、当然、彼岸を表す。これは、オリゲネスが頻繁に使う表現で、もともとはプラトン哲学に由来する。

[5] Cf.Lc.13,27.

[6] Jr.1,6.

[7] Cf.Ep.1,19;2 Co.3,10.

 

 

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