第10講話

主よ私に知らせてくださいそうすれば私は知るでしょうから、「お前たちは野のすべての獣を集めそれを食いに行かせなさいまで


 

 

 律法や預言者たち(の書)、あるいは福音書や使徒たち(の書)に、神の託宣があるとすれば、神の託宣によって教えられる人は、神に教師という名を付け[1]なければならないでしょう。なぜなら『詩編』にも書いてあるように、「人間に知識を教える者[2]」は、神だからです[3]。それに救い主も、地上にいる者を教師と名付けてはいけないと証して、こう言っております。「あなた方も、地上にいる者を教師と呼んではならない。あなた方の教師はただ一人、諸々の天におられる父だからである[4]」と。<「諸々の天におられる父」は>おんみずから、あるいはキリストをとおして、あるいは聖霊において[5]、あるいは言ってみれば、パウロをとおして、ペテロをとおして、あるいはその他の聖人たちをとおして、お教えになります。  だだし(後者の人間を仲立ちとする場合には)、神の霊と神のみ言葉とが訪れて、教えなければなりません。何のために、私はこれらのことを語ったのでしょう。それは、預言者がこう言っているからであります。「主よ、私に知らせてください。そうすれば私は知るでしょう[6]」と。実際、あなたが私に知らせてくださらなければ、私が知ることはないのです[7]。しかしあなたが私に知らせてくださり、私が知るようになれば、その時、私は、「彼らの策略[8]」がわかるでしょう。そして、各人が何を行い、どのような意図を持っているかを理解することでしょう。

 預言者が言う言葉は、以下のとおりです。そして私たちは、主がこの預言者において何を言われているかを考察してみましょう。「私は、屠られる無邪気な子羊のように、知らなかった。彼らは、私に対して思い巡らし、こう言った。『さあ、私たちは、彼のパンに木を投げ入れよう。彼を生ける者たちの地から絶とう。彼の名が、もはや思い出されることのないように』と[9]」。預言者イザヤも、同じようなことを言っております。キリストは、「屠り場に引彼ていく子羊のように、毛を刈る者の前に物言わぬ羊のように、自分の口を開かなかった[10]」と。後者では、イザヤがキリストについて語っていますが、前者ではキリストご自身が、ご自分について語っておられます。彼は言われます。「私は、屠られる無邪気な子羊のように、知らなかった[11]」と。キリストは、ご自分が何を知らなかったかをおっしゃいませんでした。たとえば「私は悪を知らなかった」とは言われませんでした。「私は善を知らなかった」とは言われませんでしたし、「私は罪を知らなかった[12]」とも言われませんでした。キリストは単に、「私は知らなかった」と言っております。キリストは、ご自分が何を知らなかったのかを検討することを、あなたに残されたのです。そしてあなたは、次の言葉から、彼が何を知らなかったのかを学んでください。こうあります。「(神は)罪を知らなかった方を、私たちのために罪となさいました[13]」。たしかに罪を知ることは、罪なのです、ちょうど義を知ることが義を行うことであるのと同じように。ですから、義について告げ知らせても、義を行わない人は、義を知らないのです[14]



[1] dida,skalon evpigra,fesqai qeo,n

[2] Ps.93,10.

[3] Cf.In Job fragment XXII,2 (PG 17,80 CD).

[4] Cf.Mt.23,8-9.

[5] Cf. Justin, 1 Apol.36-39; Origen,Com.Jn.II, 10 (6), §72; De Princ.I, 3, 4 (GCS 22, p.53, 11).

[6] Jr.11,18.

[7] ouv ga.r gnw,somai( eva.n mh. su, moi gnwri,sh|j

[8] Jr.11,18.

[9] Jr.11,19.

[10] Is.53,7.

[11] Jr.11,19.

[12] 2 Co.5,21.

[13] 2 Co.5,21.

[14] gnw/nai ga.r a`marti,an a`marth/sai, evstin( w`j gnw/nai dikaiosu,nhm dikaiopragh/sai, evstin~ o` ou=n avpagge,llwn ta. peri. dikaiosu,nhj kai. mh. dikaiopragw/n ouvk e;gnw dikaiosu,nhn)

 

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