「万軍の主よ、正義をもって裁き、(人の)腹と心を究められる主よ。あなたが彼らに復讐されるのを、私に見させてください[1]」。(エレミアは)、彼らに対する神からの復讐を見たいと、預言的に祈願しているのです[2]。実際、「エルサレムは、数々の陣営に包囲されました。そしてその滅亡が近づいていました[3]」。そしてエルサレムに言われました。「見よ、あなた方の家は荒れ果てたまま、あなた方に残されるであろう[4]」と。

 ですから(エレミアは次のように言っています)、「あなたが彼らに復讐されるのを、私に見させてください。私はあなたに、私の訴えを打ち明けました。それゆえ私の魂をねらい、『主の名によって預言するな。さもなければお前はわれわれの手に掛かって死ぬ』と言うアナトトの人々について、主はこう言われる。『見よ、私は彼らのところに行く。彼らの若者たちは剣にかかって死に、彼らの息子たちと彼らの娘たちは飢えて死ぬ。彼らのうち生き残る者はいない。なぜなら私がアナトトに住む人々のところを訪れる年、私は彼らに対して災いをもたらすからだ』と[5]」。アナトトという名は、ここでは外見上のものとして捉えられています[6]。アナトト(という名)によってユダヤ人に関する全神秘が象徴的に[7]語られます。すなわちアナトトとは、従順と解釈されます[8]。<ですから>神への従順は、神の国と同様に、(先ず)かつての(イスラエルの)民にありました。そしてこの(神の)国について、「神の国はあなた方から取り上げられ、神の国の実を結ぶ諸国の民に与えられるであろう[9]」というみ言葉が実現したのです。この点で、「アナトトの人々」、すなわち、従順の内にあった人々が「魂をねらった」という言葉も実現いたしました。この魂はエレミアの魂ではありません。なぜなら歴史も、アナトトの人々がエレミアの魂をねらっていたとは言っていないからです。私たちは『列王記』を持っていて、その書の中で、聖書はエレミアに言及しています[10]。しかしその他の書の中に、このようなことがあったとは言われてにません。その他の書においても同様です[11]。私たちは、この預言者(エレミアの)書を持っていますが、アナトトの人々が(エレミアの魂をねらったとは)言ってもいません。それは、キリストのことについて言っているのです。

 「彼らは私の魂をねらい、『主の名によって預言するな。さもなければ、お前はわれわれの手に掛かって死ぬ』と言った」。  (たしかに)ユダヤ人たちはイエズスが教えるのを禁止しました。  「見よ、私は彼らのところに行く。彼らの若者たちは剣にかかって死に、彼らの息子たちと彼らの娘たちは飢えて死ぬ[12]」と。彼らが剣にかかって死んだのはその当時ではありません。飢えは(エルサレムの)破滅後の今、彼らを襲ったのです。それは「パンの飢えでも、水の渇きでもありません。主のみ言葉を聞く渇き[13]」なのです。なぜなら、「全能の主がこう言われる[14]」という言葉は、彼らの間では、もはや言われなくなってしまったからです。この飢えとは、預言がもはやないということです。なぜ私は、預言(だけ)言うのでしょうか。(彼らの間には)教えもないのです。たとえ彼らの間で幾度となく、賢者たちの名が取りざたされても[15]、主のみ言葉は、もはや彼らの間には存在しません。なぜなら、次の言葉が成就したからです。「主は、ユダヤとエルサレムから、力ある男女、力ある勇士、戦士、判事、預言者、占い師、長老、五十人組の長、優れた助言者、賢い建築家、聡明な師を取り去られる[16]」と。彼らの間には、「賢い建築家のするように土台を据えた[17]」と言うことができる人は、もはやいません。建築家たちは、(彼らから)出て、教会に来ました。そしてイエズス・キリストという土台を据えたのです[18]。そして彼らの後継者たちが[19]、この土台の上に(家を)建てました。



[1] Jr.11,20.

[2] profhtikw/j eu;cetai

[3] Cf.Lc.21,20.

[4] Mt.23,38.

[5] Jr.11,20-23.

[6] Prosch,matoj e[neken ... lamba,netai

[7] o[lon to. VIoudai?ko.n musth,rion tropikw/j

[8] D’après la Traduction des noms hébreux.

[9] Mt.21,43.

[10] 2 R.23,31;24,18.

[11] evn tai/j Paraleipome,naij

[12] Jr.11,21.

[13] Cf.Am.8,11.

[14] Cf.Jr.6,9.16;7,3.20-21 etc.

[15] Cf. Homélies Pascales III (SC 48, p.179, s.voc.sofoi,); Ep. ad Africanum I,7(PG 11,61D).

[16] Is.3,1-3; cf. Tertullien, Adv. Marc. 3,23,2; 5,6,10.

[17] 1 Co.3,10.

[18] Cf. 1 Co.3,11.

[19] oi` metVevkei,nouj

 

次へ