以上は、「彼らの職務は、彼らの利益にはならないだろう[1]」という言葉に関して述べてみたものです。次に私たちは、これに当然続く非難を考察してみましょう。これは、道徳的な論題として取り上げるに値します[2]。その非難とはこうです。「あなた方は、あなた方の誇りを恥じなさい。主のみ前での恥辱を恥じなさい[3]」。私たちには、愚かさゆえに、誇りにも値しないものを誇るものがあります。たとえばもしも誰かが、自分は富んでおり、たくさんのものを所有していることを誇るとすれば、その人に対して「あなた方は、あなた方の誇りを恥じなさい」という言葉が言われるでしょう。もしも誰かが外面的なものに過ぎない生まれのよさを誇るとすれば、その人に対して、「あなた方は、あなた方の誇りを恥じなさい」という言葉が言われることでしょう。もしも誰かが、衣服の華美や豪華に装飾された家の建設を誇るとすれば、その誇りは聖なる人たちの誇りとは無縁のものです。それゆえそのような人に対しては、「あなた方はあなた方の誇りを恥じなさい」という言葉が言われるでしょう。預言者エレミアを<通して>言われるみ言葉をお聴きください。そのみ言葉は、私たちに、知恵さえも誇ってはならないと命じております。すなわち「知恵ある者は、自分の知恵を誇ってはならない。力ある者は、自分の力を誇ってはならない。富ある者は、自分の富を誇ってはならない。むしろ誇る者は、このことを誇るがよい。私が主であることを知り、悟ることを[4]」と。もしもあなたが誇ろうとし、しかも「あなた方は、あなた方の誇りを恥じなさい[5]」という言葉を聞かずに誇りたいとお望みであれば、使徒のように誇り、こう言ってください。「私には、われらの主イエズス・キリストの十字架の他に誇りとするものが断じてあってはなりません。キリストによって、この世は私に対して十字架に付けられ、私もこの世に対して十字架に付けられたのです[6]」と。もしもあなたが、「あなた方はあなた方の誇りを恥じなさい」という言葉を言われないように、誇りたいとお望みであれば、次のように言って誇るパウロの言葉に耳を傾けて学んでください。「私は本当に喜んで、私の弱さを誇りとするでしょう。それは、キリストの力が私に宿るようになるためです[7]」と。パウロが誇る誇りとはどのようなものか、お聴きになってください。「私は、並外れた苦労をし」  私たちの内の誰がこのように言えるでしょうか  「幾度も投獄され、何度も死の危険にさらされました。私は、ユダヤ人たちから四十に一つ少ない鞭打ちを五回受け、(ローマ人たちから)三度鞭打たれ、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度あったのです[8]」。

これで私たちは、誇りには違いがあることを学びます。一つは、恥に値する誇りであり、これについては次の使徒の言葉が当てはまるでしょう。「その栄光は彼らの恥の中にあります[9]」と。もう一つは、恥ずべき事柄において持つ誇りであります[10]



[1] Jr.12,13.

[2] kalo.n eivj to.n hvqiko.n to,pon avnalabei/n

[3] Jr.12,13.(LXX).

[4] Jr.9,22-23.

[5] Jr.12,13(LXX).

[6] Ga.6,14.

[7] 2 Co.19,9.

[8] 2 Co.11,23-25.

[9] Ph.3,19.

[10] evfVoi-j e;dei auvtou.j aivscu,nesqai( evpi. tou,toij oi;ontai doxa,zesqai)

 

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