10  おそらくわたしたちは、救い主によって言われた福音書のみ言葉を利用することによって、目下の言葉を理解することができるでしょう。そのみ言葉は次のような内容です。「あなたがたは、日のあるうちに働きなさい。だれも働くことのできない夜が来る[1]」。この個所では、救い主は、このを日と名づけています    わたしはここで、「この個所では」という言葉をどうしても付けざるを得ませんでした。と言いますのは、別の個所では、また別のことが意味されているのを、わたしは知っているからです    さて救い主は、このを日と名づけられましたが、他方で(世の)終わりを、諸々の罰のゆえに闇および夜と名づけておられます。実際、預言者アモスは、「なぜ主の日をおまえたちは待ち望むのか。主の日は、闇であって光ではない[2]」と言っております。もしもあなたが、宇宙の終わりの後に来る悲しみが何であるかがおわかりになるなら、この悲しみは、犯された罪のゆえに懲らしめを受ける人類のほとんど全部に臨むものですが、あなたは、そのとき周囲が闇に覆われて、神に栄光を帰すことのできる人がもはや誰もいなくなるのがおわかりいただけるでしょう。その時には、み言葉は、義人たちに対しても次のような命令をお下しになるのです。こう言われております。「わが民よ、おまえは行って、おまえの倉のなかに入れ。そしておまえの門を閉じ、ほんの少しの間だけ身を隠せ。わたしの怒りの激情が通り過ぎるまで[3]」。やはりここであなたは、できますことなら、(み言葉が)「ほんの少しの間だけ」と言われたのにご注意ください。この「少しだけ」という言葉は、神にとって少しなのであって、人間にとっては少しではないのです。実際、あるものは、それぞれのものによってわずかにもなり大きくもなることに気づかなければなりません。わたしは、あるものがそれぞれのものによってわずかにもなり大きくもなることを例を引いて証明してみましょう。それぞれの生き物にとって、これこれの量の餌は、その動物の組織と比べて合わせてみますと少ないですが、しかじかの量の餌は、再びその動物の体格と比較してみますと多いものです。同様に、人間にとってわずかなものも、他の生き物にとっては大きなものになるのです。たとえば、大人にとってわずかなものは、子どもにとっては大きなもので、人間の生涯全体は、たとい高齢者の生涯であっても、この全体に比べてみればわずかなものなのです。これと同じように、神にとってわずかなことは、わたしたちにとっては大きなことなのです。神にとってわずかなこととは、この全体なのです。ですから、「わが民よ、おまえは行って、おまえの倉のなかに入れ。そしておまえの門を閉じ、ほんの少しの間だけ身を隠せ。わたしの怒りの激情が通り過ぎるまで[4]」と言われる場合の、この「少しの間」という言葉は、行って自分の倉に入るように命じられた人との関係においてではなく、その命令をお下しになった方との関係において言われていると見なさなければなりません。前者の人にとって大きなことも、このお方にとってはわずかなことになるのです。実際、神の「怒りの激情が通り過ぎるまで」、自分たちの倉に入らなければならない人々がいるとすれば、そして「このこの代全体にわたって罪が許されないばかりでなく、来たるべき代でも赦されない[5]」人々がいるとすれば、この「わずかの間」という言葉は、今言われたこれらの人々にも及ぶのです。



[1] Jn.9,4.

[2] Cf.Am.5,18.

[3] Is.26,10.

[4] Is.26,10.

[5] Ct.Mt.12,32.

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